夢
眠るのが、怖い。
明日、目を覚ますかどうかわからないから。
自分が、その生命を終えたあとのことを考える。
考えたくもないことから、逃げられないもんだから。
胸が締めつけられる恐怖の中で、想像したくないと思いながら、
心の中はそんな、恐怖の中から逃げられない。
僕は、僕の意識は、もう無いのだ。
そんなこと、想像できない。
だから、こんな想像は全くの無意味なこと。
そう。
何度自分に言い聞かせ、生きてきたんだろう。
そんな、どうしようもない事実らしいことを堂々巡りして、
何度生きてきたのだろう。
僕は、明日の無い自分の生命を受け止めきれずに、
なんとかこの世界にとどまっていられないだろうか、って、
願い、恨み、さまよい続けていた。
救いはないのだろうか。
明日もあたりまえにあるんだと、嘘でもいいから信じられるような救いはないんだろうか。
嘘の中でもいい。
信じているまま、自分の生命を失えたら。
嘘でもいいから、信じさせてほしい。
そう願うしか、すがるものが見つけられなかった。
先を見る暗闇に疲れ果て、眠りについたときに、夢を見た。
陽がのぼっていた。
空気は、朝のすがやかさを彩っていた。
どこかから、鳥の鳴き声が聞こえる。
道路には、ランドセルの小学生が歩いている。
今日も空は、青い。
樹の葉は緑色に、きれいに揃っていて、
風は、やさしくそんな樹の葉一枚一枚に挨拶をしている。
全て完璧な、世界だった。
そして、僕だけがそこの世界には消えていた。
救い、とは。
限りある命を与えられた僕に残されている、唯一の救いとは、
こんな、
きっと事実であろう、こういう夢だった。
何も変わりのない、世界。
笑顔の人が、絶えることのない世界。
涙はいつしか、消えて笑顔に代われる世界が。
僕がいずとも、これからも、きっとずっと、
あり続けてくれるんだろうという、希望。
太陽はみんなを温めてくれて。
樹の葉は、みんなに季節を知らせてくれていて。
鳥は自由に空を呼び。
小さなものは大きなものに抱かれている。
それは、既に完璧に揃っていたんだと。
とうの昔から、今までずっと、延々と繰り返されてきた、巡り。
終わりのある存在に、最後に残されている希望を、
教えてくれたのは、そんな夢だった。
心残りは限りなく押し寄せるけれども、それもそのまま消えていく。
僕はいない。
それでも、世界は完璧にあり続けるんだ。
そこに僕が、いようがいまいが、変わりなく。
完璧な、自然のままで。
お別れは、さみしいけれど。
きっと、大丈夫だから。
人は人を助けると同時に、傷つけもする。
人は人を助けたいと思うのですよ。
同時に、人を傷つけて保身をするんですよ。
人間の本性、というのは一貫性のない曖昧さの中にこそあって。
動物(いわゆる動物)の一貫性と比べれば、ひどく右往左往するんです。
それこそ、人間らしさであって慈しむ部分であって。
これが、僕の中では、慈しむのであって愛ではないのではないか、と。
愛って、人間に可能なレベルにあるのかなぁって。
でも、同類、同じ境遇、同じ限界をもっている、という。
愛って、なんだか同じ立ち位置に居れていない状態に感じるんじゃないかって。
「慈しむ」というのは、しっくり来るんです。
人間ですから、自分ひとりでは成立しない。
他者がいるということは、相互に影響をし合うということで。
それが、快であっても不快であっても。
自分を自覚するには、他者が必要で。
人間であるには、他者の中に自分を感じることが必要で。
どんな、誰の中にも、自分の一部分が見えるんで。
逆に自分の一部分は、誰の、他人の中にもあるのだろう、と想像して。
だから、
つらいとか、悲しいとか。
楽しいときにはあっという間に通り過ぎてしまう人間らしさを、
感じられている時間。
そんなふうにも思うんだけれど。
どうか、どうか、
自分を、何よりも自分を、きちんと慈しむ人であってほしい。
介護職の強み、とは。
僕が介護職員となって、早数十年という感じ。
その後の相談援助職という職種に10年を欠けるくらい。
まぁ、僕の中では介護職も相談援助職も同じようなものを目指す職種であると思っている。
その人の望む暮らしを目指して支援を行う。
という、文章にするとかんたんだけれどもイヤに途方に暮れるような作業になる。
各個人で価値観もバラバラであるから、
明確なエビデンスなんてない。
多職種連携とか言うけれども、
カンファレンスの場で話される言語は、明確化されたエビデンスに基づいた事実。
これが一番説得力があるし、
専門的な意見というのも科学的統計的に裏付けられた意見が映える。
であるから、
介護職、相談援助職というのは、
そもそものエビデンス、科学的統計的な裏付けの無い、各個人の在り様に応じてこちらの態度も変化させるという曖昧さが性分であるし、ウリでもある。
だから、
多職種連携の上でのカンファレンスの場面では、
介護職、相談援助職というのは、一歩下がった意見しか言えないことも多いのではないだろうか。
エビデンスに基づき自分の専門性に自身を持って、揺るぎない意見を言うということは、
介護職、相談援助職においては、未熟とも言える「思い上がり」でもあり得るのだから。
「自分の意見は、最も正しい代弁機能を経た意見である」という(誤解)。
今日のクライエントと、明日のクライエントは、
同じ人であるけれども、違う意向を持つ。
それを一般に、成長と言ったり疾患と言ったり、困難なケースと言ったり。
自己決定ができているから、日によって言うことが変わるんだろう。
気持ちも変わるんだろう。
誰かの他律的な意見に影響されていれば、その他人が関与するまでは変化なく暮らすのであろうけれど、
自立した個人は、自分の意見と意思で考え結論する。昨日とは異なる結論になる。
「あたりまえ」
なんだ。それを受け入れ、人間であるからこそ一貫性もなくゆらぎながら迷いながら。
自分でもわからない自分を扱ってか、扱われてかして、暮らしているのだ。
「本当の自分の気持ちは?」
こんな漠然とした問いに明確に的確な答えをデキる人なんて、そういない。
とかく、
介護相談援助職以外の職種は、ニーズの変化に弱い。
付き合い続ける根気の部分で。
介護相談援助職は、「よくあること」と、再度傾聴できる性質を持つ。
で、
何を言っているのか、だんだんわからなくなってきているんだけれども、
こんな、曖昧な意味のないような文章の羅列こそが、意味そのものであったりしてね。
わざと意味深なことを言っているけれど、感性のままに感じてもらえることで、誤謬なく君と通じ合える、
そう、思うっているんだ。
P.s 昨日、思い出した。素敵な時間と素敵な
来年の手帳を準備した。
来年の手帳を準備した。
いつものように関係機関への連絡先を、手帳の最後の自由欄に貼り付けて、年齢早見表は通常の添付されている年齢早見表では年齢が高齢者に向いていないものだから、インターネットから拾ってきた100歳まで記載のあるものへ変更して。
来年の手帳を準備して気づいたこと。
自分へのアポが取れていないんだな、ということ。
なにか目標を持ってことに当たるんだけれど、それは日常の忙しさにかまけてできないでいる。
お客さんとのアポにおいては、それは仕事であるから当たり前に優先されるのだけれども、自分とのアポというのは後回しにできる。
7つの原則の最優先事項でもあろうし、
自分との約束が一番まもることができない、と言われる所以でもあろうし。
自分との約束を、これに入れていきたいな。
そのためには、何をいつまでにどの程度、やろうかという目標。
それは明確になくってはいけないね。
鳥に憧れるくらいに、疲れたから、思ってみた。
日々、忙しい日常を過ごしている。
自分の時間がほとんどなくって、会社や誰かのための時間が多くなる。
仕事は自分が選んだものだし、大きな不満もないのだけれども、さすがにこの多忙さは辟易する。
空を見ると、自由そうに空を飛んでいる鳥たち。
空 と 鳥 自由 自由
寒さで澄んでいる空を、自分たちだけのものにして。
僕は、本当に鳥から多くを学んでいる。
今日は、そんな鳥たちが、
地面をついばみ続けてご飯を探している姿をみた。
何度も何度も地面にくちばしをつついて。
食べ物があったのか、無いのか、わからないけれど。
きっと、この人達の一日の多くはこの作業に費やされているんだろう。
そんなふうに、想像した。
また、この大空を自由に飛ぶために。
僕も、
また、自由に心をしなやかに飛び立たせるために、
今日は、下を見ながら地面をつつく時期な、だけなのかもしれない。
また、心を自由に踊らせるために。
それでも、出会いたい。
いつもの通り、ニヒルに考えがちな自分であるのだけれど。
この仕事をしていて、常に心に留めている言葉である「俺達は人様の不幸を材料に仕事を得ている」という、いつかのご利用者からの言葉。
だからこそ、自分は正直に、誠実に、真摯に、その人達に向かい合わなくてはいけない。
自分に出会うということ。
それは、その人に何かしらの「不幸」が起こったということ。
だからこそ、自分は、と。
そう思って、数年だろうか、5年程度だろうか。
先日、そんな会話を、常日頃慎ましく暮らす障害のある方へ吐露したことがあった。
その人は、神妙な面持ちで僕の語る言葉を聞き続けてくれた。
僕は、内容が内容だけに、おちゃらけたように、冗談めいたように、上に書いたような内容を彼に伝えた。
自嘲気味に。
自分を卑下しているかのように。
あらかた、僕は語り終え、
彼はしばしまぶたをつむり、考えていた。
そして、その後彼は思い切りの笑顔で以下のように、僕に言った。
「それでも、そうであってもさ。
僕は君に出会ってよかったよ。難しいことはわかんないけど。
誰かに出会うって楽しいでしょ。そんな出会いが多いほうがいいんだよ。
だから僕は君に出会ったことは幸せだと思うよ。」
涙もろい僕は、彼のお思い切りの笑顔の前で、涙でぼやけたその顔を見つめることしかできなかった。
きっと、僕も笑っていた。
僕は救われたのだろうか。
僕に出会う人は、何かしらの不幸なことに出会ってしまった人であるという事実と、
それを大事な出会いに感じてもらえる幸せと。
さぁ、
対人援助技術とやら。
有機的な人間関係の構築、とやら。
クライエントと援助者という相関関係という図式のもろさ。
「この深遠で、温かい、言葉のいらない世界の感情の交流を表現できるのかい。」
彼は幸せだと言った。
僕は、彼のおかげで幸せを感じられた。
僕たちは、人間だった。