介護保険に負けた、「福祉」

福祉 には哲学が必要だ。

哲学からの挑戦状

自分は哲学が好きだ。

だけれども、その限界があるということもれっきとした答えとして、知っている。

自分の生きている限り「わからない」ということ。

 

論理的な世界では、わからないということが初めからわかっている場合には、

それは、その問いは無かったもの、無視しても良いもの、効率的なもの。

そう判断されてしかるべきであろうと思う。

 

しかし、現代に至るまで人間は哲学を捨てなかった。

哲学という名前を使わなくとも、

神経症、スピリチュアル、占い、パワースポット。

人間は、その哲学「的な」要素をカジュアル化して求め続けている。

単純に苦労を避けて幸せを求めているという価値観である一方で、

隠れて満たされていない「自分の存在の確かさ、有意義さ」の実感。

 

自分はどうするべきか?

正しいと認めてほしい。

これに対する答えを求めている。

 

効率重視の社会の中で、非科学的な要素に植える人間がいる。

誰しもが、引きこもるのだと思う。

正直、引きこもりを実行するしないは別として、

引きこもる気持ちを経験することなく自然に成長し大人になった人を、

僕は信じきれない。

本当の、神聖なそのような人においては、次元の違う純粋さを感じるけれども、

それ以外の人に関しては、ずいぶんと自分の人生に対して真正面から付き合っていない、

不正直な生き方であるな、と思う。そして正直はとても大事に思うのだ。

 

生きがいがわからない、とよく聞く。

僕は、生きがいに悩んだことがあまりない、記憶にない。

なぜ生きているのか、千、万回、自分に問うたかもしれないけれども、

僕を含めた多くの人は、

なぜ生きているのかと悩んでいるふりをして、実は、どう生きればいいのか悩んでいる。

 

一部の、本当の敬虔な人間だけが、純粋になぜ生きるのか、と問い続ける。

そして、哲学が現れる。

 

どう生きるか、悩みつくす先にはなぜ生きるのか、という自然な問いがある。

全世界に絶望を越して、失望する人には、哲学があるのだと思う。

失望し切った先に、哲学の輝きがあるようにも思う。

 

僕は経験なんてしていない。

そこまでの経験をしないで、生きてこれてしまった。

 

生涯を通して哲学に生きることは、実は、不幸でもあり唯一の救いでもあるのだろう。

 

僕は趣味程度に、かじっておく。

エセ者で、いい。

しったかで、十分だ。

 

だって、明日もやることがはっきりとあるから。

 

けれどね、

全世界を超えて、宇宙を超えて、その果ての最初と最後の交わる場所。

そんな夢を、みたい。