介護保険に負けた、「福祉」

福祉 には哲学が必要だ。

多職種連携という、課題。

ご利用者を支援していく中で、その方の課題に焦点を当て多職種の方々が、その人に関わるようになる。

 

それぞれ、専門性が個別になりそれぞれの価値観を踏まえてその方の支援を開始する。

頭では流石にわかっているのだろう。

「多職種の連携は大事である」というお題目を。

しかし、日々の援助、ケアの中に埋没していくと、各専門職は、

「役割を遂行する事に、埋没」していく。

これは、よほどご利用者が自分の望んでいる将来を自発的に表出し、それを各専門職へ伝達できる能力がなければ、

各専門職たちは、自らの専門性の範囲の中に逃げ込んでいく。

どこか「これでいいのか」、どこか「この作業に意味はあるのか」と、問いながら。

結局、それが「楽」であるから、と厳しい表現をしてみたい。

 

専門性がなぜ必要であるかというと、

その方の課題が種類として多岐にわたり、課題そのものについては一分野に特化される時がある。

介護職は病気を治す事ができないし、

医療職はその人の暮らしにずっと沿い続ける事を求められない。

一時期は、その時期に集中してイチ専門職からのケア、サービスの提供が集中的になされる必要がある。

しかし、その時期を終え、慢性期、生活期に入った頃には、

今まで集中する必要のあった課題の解決から、

「生きがいの再獲得」への支援へと、舵を切り替える必要が出てくる。

この時期になると、それぞれの専門性は積極的に前に出る事を良しとせずに、

専門家である前に、幸せを追求する人間である。

というスタイルへ戻らねばならない。

ここまでの発想は、きっと既に学術的に、学習として、学んでいる。

 

それでもなお、なぜ、この多職種の連携というのは、課題足りうるのか。

きっとそれは、

「心の底から自分の専門性を離れ、他者の視点を受け入れる勇気が持ちにくい」

という事なのだ。

 

専門職のなんたるかは、それは頑固な職人。

ある種の、物を作る人の、自分と物との一騎打ちを何度も繰り返し繰り返し、

孤独な戦いの結果にもたらされた、個人の技術、しかしそれは卓越されている。

そんな融通の効かない頑固さに裏付けられた技術を、プライドの拠り所として支えられて、

専門職というのは、育っているからに他ならない。

専門職についているそれぞれの専門家は、自分の技術に自信を持てば持つほどに、

自分のこれまでの対象との一騎打ちの真剣勝負を、誇りとする。

それを誉れとして、専門職としてご利用者の前に対峙し、また一騎打ちの真剣勝負を繰り返す。

最も優れた作品というのは、自分の真剣勝負が現実化されたときである場合が、多い。

このような場合、

同じ専門職と言えども、個人によって技術、手段は異なるのであるから、

他者の技術よりも自らの技術をより高いものにしようと、心を砕く。

その実際は、比べるような筋合いのものではなく、個性によっていくつも存在して良いものを、

いかにも真実が一つであるかのように、誤解してしまう傾向にもある。

「自己覚知」が大事であるという所以である。

 

その土壌に立って、多職種が連携しせよ、という命題が投げかけられている。

職人気質である専門家にとって、多職種で連携するということは、通常ある種の苦痛を伴う事を前提とできなければいけない。

その中心にいるべきご利用者のためであれば、その苦痛は自らの成長のためと受け入れる覚悟を持てなければいけない。

 

専門性が高まれば高まるほどに、視野は狭く特化されているとしたら、

自分の手掛けた作品は、既に自分の手を離れて、別のモノに変わっているのだ。

 

相対している、そのご利用者というのは、同じ位置にいるということはない。

昨日の、その人と、今日のその人は、違う人物であるのだ。