介護保険に負けた、「福祉」

福祉 には哲学が必要だ。

雑記

介護の人材不足っていうことが言われて久しいけどさ、

どうやったら人材を確保できるのかってまあずっと考えているわけですよね。

 

本当だったらその前に介護を今いる介護職員さんを辞めさせないように事業所の風通しの良さで行ったりとか働く上でのやりづらさをね、その都度その都度聞いてあげてできることできないことやっていきたいことそれはやれないことではっきりと部下さん達に反応してあげないと自分の意見はどこまで上に伝わってるんだろうって部下さんはモヤモヤしちゃうと思うんだよね。

それが積み重なっていくと、最終的に何を言っても意味ないって上は考えてくれないって思われてしまう。

本当は考えてたとしても、下の人達にはそれはわからないことだから上に立つ人は下の人たちにきちんと自分の考え方方針を伝えていかないと、部下さんたちは会社の方針はどうなってるかわからないって思ってしまって当たり前なんだと思います。

 

確かに、部下さん達に自分の方針を伝えていくっていうことは批判があるかもしれない。批判があった場合きちんと部下さんを納得させられるかどうか、勇気がいることなのかもしれない。

だけれども上司というのは権限を持っている存在なんだと思う。

どうしたって部下さんよりも情報量は多いわけだし、会社全体のバランスっていう情報量は多いわけだから部下さんと向き合って状況の説明をしないといけない。

 

意見を言うっていうのは二通りのパターンがあるような気がする。

一つは部下さんがストレスのあまり場当たり的な要求を上に突きつけてくること。

もう一つは本当に会社のことを思って、いま自分が求められている役割をやっていく上でこんな困難さがあるんですってきちんと伝えている場合。

 

この二つには対処方法としては大きく異なっていて、

一つ目の意見についてはまずその深さんのストレスになってしまっていることを傾聴して、自信を取り戻してあげること。そして、あなたが頑張っているということはきちんとわかりましたって伝えてあげることが大事なような気がします。

後の方の会社のことをきちんと思って意見を言ってくれている場合は、 それに対してはきちんと意見を言ってくれてありがとうってまずは感謝の気持ちを持つことがとても大事だと思う。これは上に立つ者にとって今現在の状況を変化したせてくださいって、ある意味の今現在の否定だから、その責任は自分にあるわけだから受け止めるには辛いことなんだと思う時々は。だからこそ、上に立つ者としての器は試される時でもあるんだと思う。

 

2023年2月22日 山本大勝 

哲学からの挑戦状

自分は哲学が好きだ。

だけれども、その限界があるということもれっきとした答えとして、知っている。

自分の生きている限り「わからない」ということ。

 

論理的な世界では、わからないということが初めからわかっている場合には、

それは、その問いは無かったもの、無視しても良いもの、効率的なもの。

そう判断されてしかるべきであろうと思う。

 

しかし、現代に至るまで人間は哲学を捨てなかった。

哲学という名前を使わなくとも、

神経症、スピリチュアル、占い、パワースポット。

人間は、その哲学「的な」要素をカジュアル化して求め続けている。

単純に苦労を避けて幸せを求めているという価値観である一方で、

隠れて満たされていない「自分の存在の確かさ、有意義さ」の実感。

 

自分はどうするべきか?

正しいと認めてほしい。

これに対する答えを求めている。

 

効率重視の社会の中で、非科学的な要素に植える人間がいる。

誰しもが、引きこもるのだと思う。

正直、引きこもりを実行するしないは別として、

引きこもる気持ちを経験することなく自然に成長し大人になった人を、

僕は信じきれない。

本当の、神聖なそのような人においては、次元の違う純粋さを感じるけれども、

それ以外の人に関しては、ずいぶんと自分の人生に対して真正面から付き合っていない、

不正直な生き方であるな、と思う。そして正直はとても大事に思うのだ。

 

生きがいがわからない、とよく聞く。

僕は、生きがいに悩んだことがあまりない、記憶にない。

なぜ生きているのか、千、万回、自分に問うたかもしれないけれども、

僕を含めた多くの人は、

なぜ生きているのかと悩んでいるふりをして、実は、どう生きればいいのか悩んでいる。

 

一部の、本当の敬虔な人間だけが、純粋になぜ生きるのか、と問い続ける。

そして、哲学が現れる。

 

どう生きるか、悩みつくす先にはなぜ生きるのか、という自然な問いがある。

全世界に絶望を越して、失望する人には、哲学があるのだと思う。

失望し切った先に、哲学の輝きがあるようにも思う。

 

僕は経験なんてしていない。

そこまでの経験をしないで、生きてこれてしまった。

 

生涯を通して哲学に生きることは、実は、不幸でもあり唯一の救いでもあるのだろう。

 

僕は趣味程度に、かじっておく。

エセ者で、いい。

しったかで、十分だ。

 

だって、明日もやることがはっきりとあるから。

 

けれどね、

全世界を超えて、宇宙を超えて、その果ての最初と最後の交わる場所。

そんな夢を、みたい。

 

 

第2の自分の声を聞け

 この仕事について、30年位になる。

幾人もの人と出会い、別れてきた。涙ながらに、もう会えないですね、とも言えず、サヨナラの言葉も言わないままに視線だけでお互いにもう会えないことをわかっていて、手を降った人がいた。

出会った数と同じ数、別れを経験するという真理は紛れもなくここに存在していて、日頃の忙しさに忘れている。けれども、心からそれへの気持ちが無くなってしまったのだとしたら、この仕事をして行くことを辞めるときでもあるのだ、と心から思ってもいる。

 信念という事場があって、きっと僕にもそれはあるのだろう。その信念を保ちつつ、前を向き続けていきたい。健康で今日も生きられているという奇跡の意味は、きっと僕という人間の持っている信念が社会の役に立ち、今日もそれを用いて何かをしなさい、という意味であろう。それが生きている意味であろう。生きる意味がわからないとか、思う時期もあったのかもしれないけれども、生きる意味というのは当たり前に気づくものではなくって、自分の精一杯生きてきた経験の中から編み出された信念。それが社会に対して役に立てるという実感にこそあるのだと思う。そして、その実感を与えてくれるには他者の存在がどうしても必要なんだ。自分ひとりでは気づけない。「ありがとう」。幾千回も聞いたような言葉の、心からの言葉に自分の価値を教えてくれる他者の存在。だから、僕も「ありがとう」という他者への存在の感謝の気持を伝える人になっていたい。

 

 今、僕はどこか満ち足りない気持ちになっていて、何かを求めている。それは目標でもあるかもしれないし、このままの自分の力量で人生をマンネリで終えてもいいのか、という疑問。もっと自分は成長したいという静かな渇望。存在を強めることでの反動としての存在感、影響力を持つための行動することへの勇気。勇気。

 何か足りない。では、求めよ。アクションを起こせ。躍動せよ。

 安寧を求める自分と、このままではいけないという第2の自分。後悔しない人生を送りたいのであれば、第2の自分の判断を、僕は信じたい。なぜなら、僕の知らない景色が絶対にまだまだこの正解にはあって、きっとそれらは死んでも見切ることのできない景色の数だと思う。

打からと言って、自己限定してこのままこの景色の中だけでいいや、なんて到底思えなくって、僕は常に新しい景色を求め続けている。だから無駄に本を買う。知的なオナニーで終えているのが現在だ。僕はどこかで知っている。この鬱屈がある飽和点を超えたときに、僕は本気で動き出すと。今までもそうであったように、これからも僕は僕のままで在り続けている。どこかの誰かの言うような、そんな5日は永遠に来ない、なんて言うものではなくって、僕の今は鬱屈して埋没しているかもしれないけれども、死んではいない。

 覚悟を決める時。

それは、自分の信念に沿って生きているのか。今の自分に満足しているのか。死ぬときに、精一杯生き切ったと言えるのか、だと思っている。

慈しむ、そのわけ。

「人生に意味はないんです」と言えば簡単だけれども、
それで満足できるように人間はできていません。業というものなのかもしれませんけれど。
この点において、人間は人間以外の動物よりも下等な存在であると思っていると同時に、
人間性という意味で、慈しんでいます。

宇宙の始まりがわからないのだったら、
この宇宙は真実として始まっているのか。
真実に触れられないけれども、その真実を求め続けて。
意味がない、という自体に納得ができないのは、その意味のないことを証明もできないから。
けれど、意味があるという確固たる証明もない。
だから、追求するんだけれども、どちらも真実であるというところへ集結する。
けれど、それだとどちらも真実ではなくまがい物であるということとイコールになる。
この「矛盾」が、絶対性や真実と異なる、と理解すると、ややこしい迷路に入り込む。

「矛盾こそが真実である」と仮定してみる。
そこで、人間は、仮初めの安堵を得るのかもしれないけれども、
やはり普遍性や絶対性を求めて、心がソワソワしてくる。

矛盾、曖昧さ、というところに安住できない性分が、命にはある。
人間以外の動物が、明日の食料を確保できる補償が欲しいかのごとく、
人間は普遍性や完全であることを夢に見る。

絶対性というのは、命の補償なのかもしれない。

無い、ということは 有る に依存するし
有る、ということは 無い に依存する。
この事を認知しているのは「自分」であるとすると、
自らを離れ、離れ、自我を滅し続けてなお残る残骸、それさえも片付けてまっさらにする。
そうするとね、阿呆が出来上がるんです。

多職種連携という、課題。

ご利用者を支援していく中で、その方の課題に焦点を当て多職種の方々が、その人に関わるようになる。

 

それぞれ、専門性が個別になりそれぞれの価値観を踏まえてその方の支援を開始する。

頭では流石にわかっているのだろう。

「多職種の連携は大事である」というお題目を。

しかし、日々の援助、ケアの中に埋没していくと、各専門職は、

「役割を遂行する事に、埋没」していく。

これは、よほどご利用者が自分の望んでいる将来を自発的に表出し、それを各専門職へ伝達できる能力がなければ、

各専門職たちは、自らの専門性の範囲の中に逃げ込んでいく。

どこか「これでいいのか」、どこか「この作業に意味はあるのか」と、問いながら。

結局、それが「楽」であるから、と厳しい表現をしてみたい。

 

専門性がなぜ必要であるかというと、

その方の課題が種類として多岐にわたり、課題そのものについては一分野に特化される時がある。

介護職は病気を治す事ができないし、

医療職はその人の暮らしにずっと沿い続ける事を求められない。

一時期は、その時期に集中してイチ専門職からのケア、サービスの提供が集中的になされる必要がある。

しかし、その時期を終え、慢性期、生活期に入った頃には、

今まで集中する必要のあった課題の解決から、

「生きがいの再獲得」への支援へと、舵を切り替える必要が出てくる。

この時期になると、それぞれの専門性は積極的に前に出る事を良しとせずに、

専門家である前に、幸せを追求する人間である。

というスタイルへ戻らねばならない。

ここまでの発想は、きっと既に学術的に、学習として、学んでいる。

 

それでもなお、なぜ、この多職種の連携というのは、課題足りうるのか。

きっとそれは、

「心の底から自分の専門性を離れ、他者の視点を受け入れる勇気が持ちにくい」

という事なのだ。

 

専門職のなんたるかは、それは頑固な職人。

ある種の、物を作る人の、自分と物との一騎打ちを何度も繰り返し繰り返し、

孤独な戦いの結果にもたらされた、個人の技術、しかしそれは卓越されている。

そんな融通の効かない頑固さに裏付けられた技術を、プライドの拠り所として支えられて、

専門職というのは、育っているからに他ならない。

専門職についているそれぞれの専門家は、自分の技術に自信を持てば持つほどに、

自分のこれまでの対象との一騎打ちの真剣勝負を、誇りとする。

それを誉れとして、専門職としてご利用者の前に対峙し、また一騎打ちの真剣勝負を繰り返す。

最も優れた作品というのは、自分の真剣勝負が現実化されたときである場合が、多い。

このような場合、

同じ専門職と言えども、個人によって技術、手段は異なるのであるから、

他者の技術よりも自らの技術をより高いものにしようと、心を砕く。

その実際は、比べるような筋合いのものではなく、個性によっていくつも存在して良いものを、

いかにも真実が一つであるかのように、誤解してしまう傾向にもある。

「自己覚知」が大事であるという所以である。

 

その土壌に立って、多職種が連携しせよ、という命題が投げかけられている。

職人気質である専門家にとって、多職種で連携するということは、通常ある種の苦痛を伴う事を前提とできなければいけない。

その中心にいるべきご利用者のためであれば、その苦痛は自らの成長のためと受け入れる覚悟を持てなければいけない。

 

専門性が高まれば高まるほどに、視野は狭く特化されているとしたら、

自分の手掛けた作品は、既に自分の手を離れて、別のモノに変わっているのだ。

 

相対している、そのご利用者というのは、同じ位置にいるということはない。

昨日の、その人と、今日のその人は、違う人物であるのだ。

 

 

風邪を引いたんだろか。

なんだか、昨日の冷房を入れてそのまま寝て起きたあたりから、寒気と倦怠感。

冷房に慣れていないのか、夏の気配に慣れていないからなのか。

 

思考がぼやけてしまって、だるい、やる気も出ない。

明日も仕事だ。

何とかだるい中を切り抜けられたらいいな、と思う。

 

職場の部下さんたちの元ベーションが心配でもある。

リーダー。

研究熱心になるにはどうしたら良いのであろうか。

勉強をするということは、どうしたらそのきっかけを作ることができるのだろうか。

 

ま、ゆっくりと考えよ。

感情的であるということは、物事のきっかけであり、帰結する場所である。

人は理性や知性で動くものではない。
それらは常に事後的に解釈される。物事の起こった原因は、感情的な、理屈ではない気持ちから生じるものである。
感情から発動された行動が、後になって考察され理性的に修正、改善されることはあるであろう。
しかし、その大きな方針においては感情から発動された方向性からそれる、ということはない。
 
確かに、感情的な言動は諍いを呼び争いの種になる。
そこで、人間は感情を理性の知性を用いて形、表現を変え、相手に伝達する。
しかし、その根源には常に感情から生じた方向性、方針がある。
 
それは、正しさや正義では解釈はできない。
感情には、最も正しさや正義は似つかわしくはない。
それらは、理性や知性の中に存在する概念であり、感情の中には、至極単純な。
「快」と「不快」というものがある。
 
自分が存在している。
生理的な現象以外で、人が動く理由のほぼ多くはこの、
「快と不快」が常に振幅しているものである。
最終的な決定は、理性や知性を通した後の言動であろうが、
繰り返すが、その根源には感情を司る「快と不快」がある。