介護保険に負けた、「福祉」

福祉 には哲学が必要だ。

第2の自分の声を聞け

 この仕事について、30年位になる。

幾人もの人と出会い、別れてきた。涙ながらに、もう会えないですね、とも言えず、サヨナラの言葉も言わないままに視線だけでお互いにもう会えないことをわかっていて、手を降った人がいた。

出会った数と同じ数、別れを経験するという真理は紛れもなくここに存在していて、日頃の忙しさに忘れている。けれども、心からそれへの気持ちが無くなってしまったのだとしたら、この仕事をして行くことを辞めるときでもあるのだ、と心から思ってもいる。

 信念という事場があって、きっと僕にもそれはあるのだろう。その信念を保ちつつ、前を向き続けていきたい。健康で今日も生きられているという奇跡の意味は、きっと僕という人間の持っている信念が社会の役に立ち、今日もそれを用いて何かをしなさい、という意味であろう。それが生きている意味であろう。生きる意味がわからないとか、思う時期もあったのかもしれないけれども、生きる意味というのは当たり前に気づくものではなくって、自分の精一杯生きてきた経験の中から編み出された信念。それが社会に対して役に立てるという実感にこそあるのだと思う。そして、その実感を与えてくれるには他者の存在がどうしても必要なんだ。自分ひとりでは気づけない。「ありがとう」。幾千回も聞いたような言葉の、心からの言葉に自分の価値を教えてくれる他者の存在。だから、僕も「ありがとう」という他者への存在の感謝の気持を伝える人になっていたい。

 

 今、僕はどこか満ち足りない気持ちになっていて、何かを求めている。それは目標でもあるかもしれないし、このままの自分の力量で人生をマンネリで終えてもいいのか、という疑問。もっと自分は成長したいという静かな渇望。存在を強めることでの反動としての存在感、影響力を持つための行動することへの勇気。勇気。

 何か足りない。では、求めよ。アクションを起こせ。躍動せよ。

 安寧を求める自分と、このままではいけないという第2の自分。後悔しない人生を送りたいのであれば、第2の自分の判断を、僕は信じたい。なぜなら、僕の知らない景色が絶対にまだまだこの正解にはあって、きっとそれらは死んでも見切ることのできない景色の数だと思う。

打からと言って、自己限定してこのままこの景色の中だけでいいや、なんて到底思えなくって、僕は常に新しい景色を求め続けている。だから無駄に本を買う。知的なオナニーで終えているのが現在だ。僕はどこかで知っている。この鬱屈がある飽和点を超えたときに、僕は本気で動き出すと。今までもそうであったように、これからも僕は僕のままで在り続けている。どこかの誰かの言うような、そんな5日は永遠に来ない、なんて言うものではなくって、僕の今は鬱屈して埋没しているかもしれないけれども、死んではいない。

 覚悟を決める時。

それは、自分の信念に沿って生きているのか。今の自分に満足しているのか。死ぬときに、精一杯生き切ったと言えるのか、だと思っている。