介護保険に負けた、「福祉」

福祉 には哲学が必要だ。

介護とは何ですか?

対人援助職、という普通の仕事をしていて、

その中のいわゆる「介護」を生業としている人の中で、

介護とは何ですか?

という問いに、正面から応えられる人は少ないように感じている。

 

一番あり得るかな、と思うのは、

介護を尋ねているのに「介助」の事を語りだすこと。

 

障害のある方をお風呂に入れること。

自分で食べられなくなった方に、安全に食事を手伝うこと。

自分でトイレにいけなくなった方へ、その手伝いや処理をすること。

 

これらって、

介助だろうな、と思う。

 

介護は大変、重労働。

それって、介助は大変であって体力仕事であるということ。

 

題名に戻って、

「介護とは何ですか?」

の応えとして(答えではない、あえて応えと書いていたりする)は、

いくらでも多様であろうし明確な定義はないと言ってもいい。

それこそが、介護である所以でもあると思えるくらいに掴みどころのない概念だからだ。

 

でもね、

真面目な席で、この問いに応えようとする姿勢を見るだけで、

その人がどんなにきちんと人として人に向き合ってきたかがわかるものなんです。

介護とはなにか、それに対する答えの内容、それは一応の目安にもなるし、

深みを持って対人援助にあたってきた人のそれは聞くに値する言葉が発せられるかもしれないけれど、

一番の、その人は真剣に介護にあたってきたのか、介助の作業をしてきただけなのかが明らかにわかる違いは、

それを応えようとする、その人の語り具合、姿勢やモノの言い方、視線に現れる。

一定以上のプロフェッショナルは、

語ろうとする「間」にこそ、その真実が現れる。

「間」が、一向に退屈ではなくって、「間」でこそ多くの考えが伝わってくる。

 

「間」で語れるくらいに、人であることを、深く悩み模索し探求してきたのだ、と、思う。

 

介助を延々と語り、その苦労を述べられても、

それは作業のプロフェッショナルであって、身体的な技術論。

 

「介護の専門家」とは?

リハビリテーションの専門家」を考えると、わかりやすいかもしれない。

 

時々書き綴っているように、

介護とリハビリテーションは、とても似ている理念の上に成り立っている、と思う。

 

その、人を見るということの難しさ。

自分というフィルターを通してしか、世界は感じられない。

 

そんな人間としての限界の中で、人材の育成なんていう途方も無い作業を仕事としての役割を持たされて、いる。

誰かが言っていたな。

「人を育てる、というと気がひける。お互いに成長する、とでも言うべきかな」

なるほど。

それもそれで、合点の行く表現でもある。

 

会社や組織、専門職としての知識と技術。

これかは最低限というラインのようなものがある。

最低限の基準はあるのだけれど、仕事、専門職には天井がない。

上には上があるし、対人援助の難しさは、「わからない」ことへの不断のない追求にこそあるのだから。

新人であったりすると、まずは専門職、その仕事で大事にするべき視点に対しての、

最低限の価値観と知識と技術の習得を目指してもらう。

まず、ここから難しい人の多さに戸惑い、嘆く。

「なんで、わからないのか、わからない」

のだ。

 

養老孟司さんの書いた「バカの壁」よろしく、

同じ言葉を用いても、同じ表現をしていたとしても、

私のそれと、新人のそれは、異なっていて。

だから、

私にとって、なんでわからないのか、わからない、という状況は、

新人さんにとっては、

わからないことを言っているのに、わかるように教えてくれない。

に、きっと変換されて、通じているんだろう。

 

わかりやすく、教える。

そんなかんたんでもないことを、簡単に言ってのける。

このわかりやすい、という言葉の意味は、

「新人さんの世界の中で、同じ言葉を使って会話をする」

という事なのかもしれない。

 

だから、

新人への教育というものをする前に、

「貴殿、貴女は、どんな人なんですか?」

って、先輩は時間をかけて、雑談を駆使して、仕事ではなく、その人を診る視点で、

同じ「ような」世界の中で会話を始めていく。

 

その人の中で、私なりの解釈を少しずつ話しを通す。

前よりかは、通じているようだ。

彼女の笑顔が、今まではなかった笑顔に変わっている。

 

そうか。

これが、こちらの価値観を押し付けないという、アタリマエのことだったんだ。

 

 

自分の専門性は、社会へお返ししていこう。

日頃から思おうと努力していること。

 

もしかしたら、きっと何度も同じことを書いているし、言っていると思うのだけれども、

なにかの専門家、というのは、その自分の専門的な知識や技術を自分のものとはせずに、

それを身につけるために、

① 誰かの世話になった

② 誰かを犠牲にした経験

③ 誰かの時間を犠牲にした

が、きっとあると思う。

仕事というのは、おおよそそんなことの積み重ねであって、

いくら経験を積んだからと言って誰かを踏み台にしないで成り立つ業はないし、

自分個人の技術のみで成立する業もない。

 

謙虚であること、の前に、事実として、

各個人の社会の構成員としての専門性は、

自分自身所有のものではなくって、社会の持ち物であるということ。

 

自分は自分の持ち物ではなくて、社会の持ち物であるということ。

 

 

台風が過ぎて。

「台風が過ぎて、日常の普通が戻ってきたよ」

 

 

僕にとっての日常。

誰も居ないこの家の中で、静かな音楽と一緒になんでもない時間を過ごす。

時の流れはゆっくりで、しかし、少しずつきちんと時計の針は生真面目に動いている。

「動いていないのは、僕の心」

 

時々、僕は、時間というものは果たして本当にあるんだろうか。

そんな、少し変わりものであったらよく言うようなセリフの中に、ご多分に埋もれずに思ったりもする。

今の静けさがあまりにも静寂で、周囲からの影響を受けないものだから。

僕は現在の時間に生きているのじゃなくって、

過去の終わった出来事の中の僕に生きている、そこに生きようとしているんじゃないかって、思う。

例えば、ソレが僕にとってホントにそうであるのならば、

僕は現在に生きているということでなくって、過去の中に生きているということになるのかな。

もう少し言えば、今と過去の境目も無くなってしまって。

 

そんな時間を、時間と呼ぶには現実味が無くって、

こんな今は、心だけが動いている、どこでもない、どこかで。

 

「人は今の繰り返しの中で生きているんだ。未来にも過去にも生きることはできないんだよ」

「今を生きろ。今を生き切れ。在るのは、過去でも、未来でもない。永遠に続く今だけだ」

 

そう、物知りの人が言うらしい。

けれど、僕は思ったんだ。

今この瞬間思ったことは、思うと同時に過去になったことなんじゃないかって。

最も素晴らしいのは、時間の中に在るんじゃなくって、

うまく言えないんだけれど、

一番の本当の生きている世界って、思いも寄らない、ほんとうの意味で思いにも至らない心の世界で。

例えば、その日、初めて窓を開けて朝の日差しを浴びるとする。

眩しいという感覚と、温かいという感覚の中にこそ、動いたモノが間違いのない。

「生きている世界」なんじゃないかなって。

 

だから、

過去でもない。未来でもない。まさか今現在でもない、

時間という人間が考えたシステムに影響されていない、世界で生きている(?)僕は、

「生きているのでもなく、死んでいるわけでもない、移動する感覚器」

なのかな。

 

けれど、さ。

僕は、それではあんまりにも、寂しいからって、

過去のすべての中で、生きることを選んでいるんだって、今はそう思う。

 

 

今日の仕事に結果を付ける。

覚書:::

 

毎日の忙しさの中で、

明日に残した仕事というのはとても気になり、ソレが毎日続くというフラストレーションは、以外にストレスとなって自分を消耗させる。

 

意識的に、今日の仕事で終えたことを確認してから、タイムカードを切る必要もあるだろう。

例えば、今日ご利用者や患者とコミュニケーションがうまく行かなかった、

自分の支援が相手に通じなかった、真意がわかってもらえなかった、

はたまた、ご利用者、患者とトラブってしまい明日どのように会話したら良いかわからない。

という、今日の仕事の結果、明日以降の出来事を左右させる、継続した関係性の仕事であるからこそ、

今日の仕事の終わり、というものを意識して置くことが有意義であったりする。

 

ご利用者や患者とトラブったとしても、落ち込みながらも、

ほぼ9割方はその関係は長く続かずに解消していく。只一点、こちらが諦めなければ。

だからこそ、今日のやり方の結果というものはソレそのものとして、終えたことなのだ。

プラスやマイナスなどは、経営上の数字の世界の話であって、

「私」と「クライエント」の関係性の上では、マイナスの交流が今日であるお陰で、

明日以降のプラスを導き出す事も多い、関係性の深まり。

 

今日の仕事を、ネガティブな感情で終えてもいい。

そう決めてしまう必要がある。

そしてそれは長く続かないと、信じる。

仮に、本当にうまく行かないまま別れが来てしまったとしたら、

その人は、背負うリュックの一つのポケットに入って貰う必要のある人、なのかもしれない。

でも、ただそれだけだ。

 

なぜなら、

相手のある限り自分がいくら努力しても、相手の期待に応え続けるということは無力であるから。

 

今日の結果は、自分にとって快いものでなかった。

でも、それでいい。

きちんと「快くなかった」という結果を出したのだから、それでいい。

 

明日が来る人というのは、きちんと今日行動し結果を確認した人たちだ。

何も行動しない、自覚のできない人には、明日は来ない。

朝日を浴びているくせに、昨日の連続であるかのように、暗い顔をする。

 

 

過ぎた出来事の中にこそ。

僕は、あの頃をいくつも背負い、抱えて生きている凡夫だけれど、

幸せを知っている、ただの凡夫になれたのかもしれない。

 

今が、どんな姿であろうとしても、

あのとき、こうしていれば、とか、

今を嘆いて後悔して、できることなら、その、あの頃に戻りたいという、

強く、儚くても強烈な気持ちを、抱いていない。

 

いつからか、

いつも、今が一番幸せに思えるような、気持ちでいる。

 

あの頃の自分の幸せを、大事にするために。

心のなかで生き続ける、様々な思い出を抱いている今が、

今が愛しい。

 

この間までは、

僕のこんな気持は、今の自分を作ってくれたのはあの頃の出来事たちだから、

こんなふうに思うんだろう、なんて思っていたけれど、

それは少し違っていて、

あの頃たちは、今の自分の心の中に、しっかりと生き続けているからこそ、

あの頃に戻ってしまうということは、

今の心のなかで生きる事柄たちを、変えてしまうことになってしまうのだろう。

本能的に、そう思えていたからなのかもしれない。

 

後悔を、知らないわけでは、もちろんなくて。

どうしようもない、果てのない暗闇の中もあるけれども、

その中で見えていたものが、時間はかかったけれど輝くこともある。

それを分かれたから。

 

ごまかすことなく生きる強さを、

弱い自分を悔い続けるのではなく、背負い抱え歩く覚悟に変えて。

一歩の歩みは、とても歩幅が狭くのろくとも、

背負っている、抱えている、事柄たちに、

今も、将来も、助けられ、その事柄たちの中で生き続けられること。

 

幸せは、

 

常に、伴走してくれていて、

本当に疲れたら、背負った事柄を地面に降ろし、

その事柄たちの中に、微笑みと一緒に生きればいい。

 

楽しかったことも、つらかったことも、今つらいということも、

すべて、

幸せの中に、きちんと優しく揺れている。

 

 

季節の到来。

あの、君と初めてであった季節がまた来ようとしている。

 

初めて君の顔をみて、僕の心はいっぺんに君の色に染まった。

僕の人生に、こんな瞬間が来るなんて信じられない気持ち。

 

君は淡い、紫色だった。

とても可憐で、どこかミステリアスだった。

清楚でもあって、それでいて女性らしく艶っぽかった。

僕はきっと、そんなとき、

君の隣にいると君を引き立てさせることができるような、色をしていただろうか。

雪が降り出しそうな、グレーの空。

すべてのものが、ひっそりただひたすらに耐えている世界の中で。

 

白いコートを羽織っていた君は、

同じくらい白い顔に、うっすらピンク色をした頬の横顔をして、

急に僕に、何かを語りかけた。

うっとりするくらいに、素敵な、声で。

 

君を待っていた時間のせいで、

とっくにかじかんでしまった手を、気にしながら。

君は恥じらうこともなく、あたりまえに僕の手を握った。

はえらく不釣り合いではないか、そんな事に気を取られて、

君が思い切りの笑顔を僕にくれていたことに、気づかなかった。

 

やさしさとか、おもいやりとか、

あまり語り合わなかった時間が、過ぎていた。

朝の慌ただしさも、当たり前だったし、

僕らの忙しさも、二人のいる時間の普通だった。

いつしか、こんな当たり前の時間の中に二人はいれたんだね。

 

ぼくのため、きみのため、だれかのため。

将来があるから、僕らのどちらかが弱いから。

ふたりのなかに、そんな理由を探すこと自体が不潔なようで。

ただ、時間というものだけが過ぎていったのだ、と思うことこそ、

いまの、静かになった朝のくりかえしに、しっくり来る返事だ。

 

世界は、やさしく、

朝を僕にくれて、夜を僕に溶けさせてくれている。

白いコート。

淡い紫の色。

うっすらしたピンク色。

グレーの寒波に、君の姿はなんて、かけがえのない。

 

時間が過ぎたんだ。

じかんがすぎただけだよ、って。

 

千や万の理由なんて、全てウソになる。

理解をするなんて、滑稽な偽物になる。

あたりまえに、お互いを必要としていた時間だけが、

「 僕は、すべての時間の中で、君を感じられる 」

 

僕は、青色になった。

うっすら水色がかった、青色だ。