それでも、出会いたい。
いつもの通り、ニヒルに考えがちな自分であるのだけれど。
この仕事をしていて、常に心に留めている言葉である「俺達は人様の不幸を材料に仕事を得ている」という、いつかのご利用者からの言葉。
だからこそ、自分は正直に、誠実に、真摯に、その人達に向かい合わなくてはいけない。
自分に出会うということ。
それは、その人に何かしらの「不幸」が起こったということ。
だからこそ、自分は、と。
そう思って、数年だろうか、5年程度だろうか。
先日、そんな会話を、常日頃慎ましく暮らす障害のある方へ吐露したことがあった。
その人は、神妙な面持ちで僕の語る言葉を聞き続けてくれた。
僕は、内容が内容だけに、おちゃらけたように、冗談めいたように、上に書いたような内容を彼に伝えた。
自嘲気味に。
自分を卑下しているかのように。
あらかた、僕は語り終え、
彼はしばしまぶたをつむり、考えていた。
そして、その後彼は思い切りの笑顔で以下のように、僕に言った。
「それでも、そうであってもさ。
僕は君に出会ってよかったよ。難しいことはわかんないけど。
誰かに出会うって楽しいでしょ。そんな出会いが多いほうがいいんだよ。
だから僕は君に出会ったことは幸せだと思うよ。」
涙もろい僕は、彼のお思い切りの笑顔の前で、涙でぼやけたその顔を見つめることしかできなかった。
きっと、僕も笑っていた。
僕は救われたのだろうか。
僕に出会う人は、何かしらの不幸なことに出会ってしまった人であるという事実と、
それを大事な出会いに感じてもらえる幸せと。
さぁ、
対人援助技術とやら。
有機的な人間関係の構築、とやら。
クライエントと援助者という相関関係という図式のもろさ。
「この深遠で、温かい、言葉のいらない世界の感情の交流を表現できるのかい。」
彼は幸せだと言った。
僕は、彼のおかげで幸せを感じられた。
僕たちは、人間だった。