老いを支援する、力。
日ごろ自分たちが「老い」という自然な現象に包まれたクライエントと対峙している。
老いは疾患ではなく治療の対象になり得るものではなく、不可逆的な進行性の状態である。
老いに伴って、誤解を恐れずに言えば、人は得るものよりも失っていくもののほうが多い。
若さを憧れ、若さだけで「あなたはいいわねぇ、若くって」というクライエントの言葉は、臨床家や援助者ならば多く聞かれる言葉であろう。
確かに、思想的には得るものもたくさんあると「教えられる時代」である老年期において、
事実は「失い続ける時代」であるともいえるのかもしれない。
少なくとも、そう思っている人と、僕は多く出会ってきた。
僕が、最近の関心ごとは、この治る見込みのない状況にあるクライエントに対して援助し続けるという難業は、
どういう動機から継続する力が出てくるのだろうか、というどうしようもない疑問である。
仕事として継続できるということは、何かしらの有意義さを感じているはずである。
それは、
達成感、恍惚感の一般は、「物の完成」「研究の成功」「事業の成功」つまり、
行動による結果に満足するという、具体的もしくは顕在的な事実によって体験されている。
しかし、援助者のそれは、上記のようなわかりやすい事柄として現れたと思えたことは、あまりない。
援助者から「ありがとうの言葉が何よりもうれしい」と聞く。
それはやりがいであると聞く。
しかし、そのクライエントはいずれ自分たちよりも先に「逝く」ことが自明である。
人生の終末時期に、そのクライエントに沿い続けられること。
そのために、援助者として何がその続けられる力になり得ているのか、関心がある。
老いに対して喪失感に包まれている。
治らぬ病気に対して悲壮感に包まれている。
そんな人々を目の前にして、何もできない自分に強い無力感に襲われる。
こんな人がいた。
そんなように、人の介助がないと動くこともできないクライエントが、
いつもの介助を行ったら「ありがとう」と言ってくれた。
僕は、申し訳ない気持ちでいっぱいになった。
なぜに、ありがとう、なのだろう。
あなたはできない、わたしはできる。
だから、わたしのできることを、あなたに提供する。
至極自然な動機だし、特別なやさしさでもない。
あなたの言った「ありがとう」は、あなた自身が老いという障害を負って、申し訳ない気持ちでいる証左でもあるんだろうか。
そうだとしたら、そう感じさせているのは、僕ら「老いる前の存在」なのだろうか。
何も格好つけることを言いはしない。
なぜ、援助者は「老い」や「不治の病」と対峙するクライエントを前に、
援助を提供し続けられるのか。
それは、「困っている人が目の前にいて、放っておけないから」という、
まったく科学的でもない、ノウハウにもならない、精神的に救いにもならない、
惰性的な慈悲の連続に、あるんだと思う。