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介護保険に負けた、「福祉」

福祉 には哲学が必要だ。

親への愛情が形にならぬ時。

家で看取る事を第一の希望にされていた、娘様。
しかし、ご本人の状態は入院先の病院で悪化し、娘様ご自身だけならともかく、
他の家族の事を考えると、とても在宅に復帰でいるような状態ではない。
.
今まで頑張ってこられたご家族。
言葉はきつくて、ぞんざいな言葉も聞かれたけれども、
実は親の事が大事で、少しの私たちの連携の失敗も理由を問いただされた。
.
「自宅で看るのを諦めたのよ」
と、明らかに自責の念に駆られた娘様のお気持ちに、
精いっぱい考え抜かれた事。
今もおつらい気持ちでいる事こそが、愛情の深さである事。
そんな、事柄たちをお伝えして、電話を置いた。
「良い悪いがどこにあるんだ」
「正解なんてどこにあるんだ」
.
さて、
午後の訪問の時間。
約束の時間に間に合うかな。。。

小論文の書き方~個人的な作法~

小論文を書く時の、セオリーのようなものを、徒然と書いたりする。

全く個人的な見解だし、かつて学生の頃に何かの親書を一冊読んでそのまんまになっている知識の状態で書くわけだから、だらしない。

 

必要なもの。

 

① テーマ(訴えたい内容、主張)。

② そのテーマに沿った学問上の定説(あればなお良い)。

③ そのテーマに沿った「実体験」

④ 社会的に有意義である事で結ぶ。

 

これら、特に、①、②、③についての準備をできれば、終わったも同然なんだと思う。

②、③にいては、「題材」と呼ぶ。主張する事を裏付けるためのミソのようなもの。

 

 

それぞれに、少しずつ解釈を加えていく。

 

① テーマ

★ 学校や試験から、「課題」として与えられる場合もあれば自由設定(会社の企画書のような)の場合もある。

「課題」として限定されている場合には、少し窮屈な思いをする。その課題は、大きくは狙う資格やカリキュラムから逸れている内容ではないであろうから、日頃からの「自分はなぜこの学部(資格)を取りたいのか、という自問自答をしている必要が、多少ある。

この場合に、まずはすることは、

テーマに沿った社会的に有意義な主張を、考える。」

例えば、60分で論述せよ、という時間制限があるとしても、この主張の内容をどう言ったものにするか、それを裏付けるための題材(②③)はどんなことがあるか、に対して15分間くらい時間を掛けてもいいくらい、大事な点である。

ここをボヤ~っとさせたまま論文を書き始めると、何を言いたいのか支離列滅な論文が出来上がってしまう。「要注意」。

思いもかけない方向からのいきなりの課題に対しては、驚かずに、そうなったとしたら自分はどう思うんだろう、、、という想像でも主張としては十分であろう。

この場合、②の学問、学術的な裏付けにあたる定説は言及できないかもしれないけれども、説得力向上のために論点を少しずらして、どこでも、どんな状況下でも通用する「より良く生きたい」「より幸せを求めたい」「不安なく暮らしたい」等の、人間共通の感情に基づいた学術的解釈を混ぜてしまってもイイ。

きっと、ポイントは「~~について論ぜよ」と言われていようが、意外とそれについてだけ論じている論文は、②以降の題材にあたる内容は特に①で示された狭いテーマを逸れている事も多いはずである。

 

② そのテーマに沿った「定説」

★ ①の主張を、さも正しいと読み手に思わせるために、「これから主張することは自分だけが思っている事ではありませんよ」

と思ってもらう為に、誰かエライ先達(先人)の知識を拝借するという題材を用いて書く。あくまで誰かの主張なので、ピタッとはまる場合もあれば、初めからはピタッとはまらずに、若干の自分の解釈を混ぜてしまって自分の主張することの裏付けにしてしまう場合もある。

 

③ そのテーマに沿った「実体験や経験に基づいた題材」

 

★ ②が誰か他人から拝借してきた①のテーマを納得させる題材であるとしたら③はオリジナルの自分の経験からも①のテーマを主張できることのアカシになるような部分。

難しいようで、実は意外と簡単だ。①のテーマに沿うようなエピソードを自分の経験から探し出し、①のテーマに沿うように解釈してしまえばいい。時に、その時代に気付いていなかった内容であっても、こじつけてしまってもいいだろう。

自分の論文であるのだから、自分の体験を題材にしないと、きっと評価は落ちてしまう。誰かのふんどしで相撲を取らないように、ここの③で言葉キレイに、力強く「やる気」「自分らしさ」「熱意、熱さ」を相手に伝えられたら、ナイスだと思う。

 

④ 社会的に有意義であるという点で、結ぶ。

 

★ 論じている事が、独りよがりで自己中心的、マニアックでは有意義な論述ではない。ある程度万人に通用して、社会に貢献できる為に、この主張は正しい(有効)なのだという持論で結びたい。

多くの学問が何故あるのかというと、それは社会に有意義であるからだ。この点から逸れた論文は、価値を大きく失う。ニッチなものとなり、得点には至らないこともあるかもしれない。

であるから、「テーマに沿った社会的に有意義な主張」をまずは、考える。

そして、

「自分の主張は、社会に有意義であることを論じました。」

という体で終える。

 

難しいかなぁ。。。

 

 

ふ~。

とある方への、メール。現実社会への確認事項。

●●●●様

はじめまして。
かねてから疑問に思いつつ、あきらめるしかないのかなと思っていることを書かせていただきます。
私は高齢者福祉に従事しております。
高齢者福祉では、主に介護保険サービスや各自治体による多様なサービスで、高齢者を支えております。

しかし、これからの日本を考えるに、特に人口構成比の推移を鑑みるに、
日本の将来に楽観的なイメージを持てません。
参考までに人口の推移のURLを貼らせていただきます。
ttp://www.mhlw.go.jp/seisakunitsuite/bunya/hokabunya/shakaihoshou/dl/07.pdf
この超高齢社会で、年金がもらえない、高齢者の負担が増える、など、
色々と騒がれるのですけれども、
正直に申しまして、高齢者福祉に携わる私の実感として、
日本を維持するためには、高齢者の生活の質を落としてしまう事もやむを得ないのは自明ではないでしょうか。
私の業界では、みな恐くてこのような事を言える事はないのですけれども、
先のリンク先のように、生産人口に対する高齢者の人口を考えれば他の選択肢が思い浮かびません。
このリンク先の生産人口は15歳からとなっておりますから、正確には高卒や大卒の社会人一人に対する、高齢者を支える比率はよりシビアになります。

今の高齢者は、年金暮らしで大変であるとかお話しされる人もいるかと思いますが、
幸い持ち家を持っていらしたりされているのではないでしょうか。
私は現在40代でありますが、
私が高齢者という定義である65歳になるときには、若い方2人で私一人の年金、医療費、介護費を支えていただかなくてはいけません。
こんなの、どう考えても無理なのです。
ひとは自然の生き物ですから、老います。
ひとは、老いていく中で、どうしても医療と、医療よりも長い期間、介護のお世話になります。

国防であるとか、他国との関係性であるとか、今の日本には対外的な交渉事もいっぱいあるのでしょうけれども、
こんなに、わかりかっている高齢化少子化の問題を抱えている日本に、
それら確定ではない課題を語る資格があるのかどうか、疑問です。

国民の皆様はどう思っていらっしゃるのでしょうか。
今の日本は、「老い」や「死」を見て見ないふりをします。
都合の悪いものには、見て見ないふりをします。
ですから、私が実務でお会いする国民の皆様は、医療の問題や介護の問題にご自分が直面して、
「初めてこんな脆弱な制度でしかなかったのか」と落胆され、
多くの生産人口の貯蓄を切り崩し、医療と介護にお支払いいただきます。

問題の根幹は、高齢化ではなく少子化です。
移民を受け入れ、生産人口を上げる以外にこの問題を超えていく方法がないと思うのです。
私はこの仕事をしていますけれども、
若い方に対しては、高齢者に多額の保障を提供している現状に、申し訳なさを感じ切っています。
私の仕事が、将来あるのか、わかりませんけれども、日本の存続の維持の問題ですから、
私の職がなくなる事で、日本が維持できるのならば、それはそれでいいと思っています。

長くメールをしてしまいましたが、
日本国民のみなさまに、いずれこのような時代が確実に来ることが決まっているという現実を見据えて、
これからの生き方を検討してもらえるきっかけをと思い、メールしました。
知らないで現実に直面する事は、悲しい事ですし、もしかしたら思いもよらない方法論を考えられる方もいるかもしれない。
少なくても、この業界にいる専門職と言われる職種には、この問題に解決方法を持っている方はおりません。

●●様のご意見を聞きたくも思います。

恋文~変身~

真夜中に、誰かに呼ばれたような気がして、目が覚めた。

カーテンをめくると外は真っ暗で、自分がひとりでいる事を思い出した。

 

いつからだろう。

起きて一番最初に、君を思い出す事が始まったのは。

 

僕の消えかけた人生に、君が希望を持っていいんだよ、と言ってくれた。

昔っから、そうなるべきだってことは知っていたさ。

でも、勇気がなかったんだよね。

自分の人生を、暗いものにしておいて、

固く幸せにふたを閉めてしまっていた方が、楽だったから。

前を向いて生きていく強さって、

自分の為にでは、生き始められない。

誰かのために、そして誰かに頼って、僕は初めて勇気が持てたんだ。

もう一度、自分の人生を創ろう、って。

 

幸せになるのに、勇気が必要だなんて、人は笑うのかもしれない。

人が幸せを求める事は、自然にできるものだと決まっているのかもしれない。

けれど、

余りにまぶしい夢をみた後には、暗い洞窟のような場所が居心地いい。

弱くなってしまった心では、明かりのともる方へは歩けないのかもしれなくて、

幸せを求める、その事よりも、過去を生きた自分ばかり、想ってた。

人生の儚さをうたう人しか人しか、信じられない自分がいた。

人は記憶だけで幸せになれる。

誰かがどこかで言っていた。

その言葉だけに、しがみ付いて、泣いていた。

泣けば少しは楽になれる、それだけを信じて。

 

僕を、さっきまでいた洞窟から救い出してくれた人は、

決して強い人ではないんだと思う。

どっちかと言うとね、

弱くて、もろそうで、甘えん坊で、放っておくと心配になってしまう。

そんな、子供のような人なんだ。

器用に、社会に対しては、上手に器用に、生きようとして、

結構さまになる時も、たまにかもしれないけれど、あるみたい。

だけれど、根っこが不器用なもので、随分遠回りして生きてきたような、人。

素敵な人なんだ。

僕にとっては、

その人は、一生懸命生きて、

自分を必死に守って、けれど認められないことの方が多くって、

きっとね、僕なんかよりもつらかったんだと思うんだ。

僕の心は、きしむくらいにその人を助けたがっている。

何もできないのかもしれないけれども、

静かに隣に座って、体を寄り添わせ、同じ時間を生きたいんだ。

神様のくれた奇跡を、大切に大事に、僕のものだけにしてしまいたい。

 

ひとつ。だけ。

その人は、そんな人生を不器用に生きてきても、

自分を生きる事に諦めてはいやしなかった。

諦める事が、過去との契りであると信じる事に慣れ切っていた僕には、

そんな彼女の姿は、圧倒的な強さに思えて。

 

怯えている僕は、何度も何度も確かめた。

恥ずかしかったけれど、その人の前では自分の全部を見せられた。

見せてしまっても、不思議と大丈夫な予感があった。

受け止めて欲しい気持ちよりも、僕のすべてをわかって欲しい、

そう願っていた。

その人は、小さな優しい声で言ってくれた。

「いいよ」

 

 

さっきまで隣で寝ていたように、

あの人を感じるのだけれど、当然姿が無くって。

がらんどうに思える胸を、自分でなでながら。

 

遠くに住む、その人を思って黒い空を見る。

星は、小さいころから見慣れた冬の星たち。

友達のように、つらい時に守ってくれていたように、

今も、まるで僕の為に、けなげに輝いている。

僕は、その星たちに話しかけている。

 

「もう、僕は新しい人生を歩いてもいいんだってさ。

 信じられる人に出会えたんだ。

 けれど、僕はその人のそばにはすぐに行ってあげられない。

 どうか、星たち、その人のそばに行ってあげて。

 そして、僕がその人のそばに行けるまで、見ていてあげて欲しい。

 その為なら、僕はどうなってもいいよ。

 壊れたって、幸せだから。笑って終えられる」

 

願う事しかできないけれど、

願う事ならばできるから。

会えないつらさを胸に収めて、星たちに願い続けた。

 

今、その人はどうしているんだろう。

そんなことを何百回と空に問い続けている。

答えは返ってこなくって、その人を求め続けている自分がいる。

僕は、もう一度生きたがっている。

その人とならば、

自分でも知らなかった自分を生きられる、そんな気がして。

僕だったら、その人を幸せにできる。

そんな思い上がりのような、確信と同時に。

孤独の意味は、自分とその人の距離を感じる事。

いつか、いつか、いつかと、何百回と唱えた言葉に、

本当にいつか、会えた時に、今の孤独の意味は生きる意味に変わっていく。

万感の思いを込めて、伝えたい。

 

 

あらゆる愛しさを、教えてくれたその人へ。

結婚と入れ歯。

結婚と入れ歯は、似ているな、と思う。

 

入れ歯は、どんなに優秀なDrでもそれぞれの歯茎に最初からピッタリ合うものを作れない。

入れ歯が合うには、歯茎の側が馴染んで形を合わせるしかない。

その間、歯茎が馴染むまでは痛みを伴う。

時には、出血する事もある。

 

だけれど、それに耐えた先には、

その人にとって、無くてはならない体の一部に変化する。

歯茎が悲鳴をあげていたはずなのに、いつの間にかその形に沿うている。

 

 

結婚もきっと、同じで。

 

神様は、どんなに優秀な神様でも最初からふたりをピッタリには作れない。

造らないのかもしれない。

苦労や痛みや不安に耐えた先に、

この人でよかった、そんな風に、

かけがえのない存在であることがわかるのかもしれない。

 

お互いの、別々の人生。

それを歩んできた者同士なのだから、最初から嚙み合わないのは自然な事。

苦労や痛みを共に味わい、その経験と歴史を積み重ねて、

お互いは、かけがえのない存在になれるのだと思う。

ひとつとひとつ、お互いが添うている。

 

逆に、

そのような事を試行錯誤しない場合には、

ずっと、なんだか嚙み合わせが合わないなぁ、という我慢をして、

暮らす事になってしまう、のかもしれない。

言語を超える。

とある人への、応えとして書き綴りたくて、書く。

(だから決して「答え」じゃなくて。)

 

言語とはコミュニケーションの為に誕生し、

現代の情報化社会では、言語(以下、言葉)を用いて誰かと交流する事が

非常に重要な要素になった。

僕も、会社での企画書であるとか売り上げ報告のわかりやすい伝え方であるとか、

周知する書面であるとか、とかく言葉を用いて社会は成り立っている事実を、

全く否定しない。

わかりやすい文章を書く事は、社会人の能力として非常に重要だし、

書かれていることを、可能な範囲誤解無く理解する読解力も必要だ。

 

しかし、言語とは、対象者との共通理解があって初めて成り立つ道具でもある。

言葉は、その単語に定義を必要とする。

その定義を共通の理解として、人は人とコミュニケーションをとる。

ここで問題になってくることが、

「共通にきちんと理解できるのか?」という、問題。

特に、概念的な、

「愛情」であるとか、

「憎悪」であるとか、

「やさしさ」であるとか、

そういう類の、抽象的な言葉は、

人それぞれによって、定義する地点が違う。

 

Aというコンプレックスを持っている人にとっての「やさしさ」と、

Bというコンプレックスを持っている人にとっての「やさしさ」は、

当然異なる。

 

言葉を用いてコミュニケーションをとるという事は、

情報を伝達する事においては誤解は少ないだろうけれど、

こと、

感情を相手に伝えるには、最も困難な伝達ツールだ。

心理学上の、表情しぐさ声のトーンで7割語っている、なんていう(7割だか8割だかは確かでない)統計を持ち出さなくても、

「あんなに楽しかったんだ」という気持ちを相手に伝えるには、言葉は不適格であると思う。

無邪気な笑い方で、無邪気な格好で、はしゃいで騒ぐことの方が、

「楽しい」は相手に伝わる。

小説家は、ひとつの伝えたいことに1冊の本を要するくらいに、

詩人や俳人が、言葉を用いながらも、いかに言葉から離れられるか、単語を駆使するように、

言葉や文章自体に意味は無くて、

それから想像し思い馳せて来る感情こそが、表現者の意図であろうから。

言葉は、それほどのモノになりえない。

きっかけ を作りはするかもしれない。

言葉を使う表現者にとって、言葉ほど歯がゆい、面倒なものはない。

 

そして、優しさを定義する、という、手段に対しては、

今まで話したように、あまり意味のない、事だと思う。

意味を持っているのは、

「なぜ優しさに「定義」を求めたのか?、という、動機」の方にあるのだと思う。

そしてそれは、

最終的に、自分の「在り方」の問題になってくる。

充足しているか、不全感を抱いているか。

前者なら、定義には無関心だろうと思う。

後者なら、定義に頼りたい心境であったのかな、と思う。

 

やさしさ を伝えるために、

やさしい という単語は使わない。

使ったとたんに、誤解や噓になる。

やさしさはきっと、

定義づけられて固定化されるものではなくって、

感じるものであるし、それでしかないんだと思う。

便宜上、簡単に表現できないもんだから、

人は「優しい」なんて言うんだろう。

 

絵画を見て、

その感動を伝えるのに、幾千の言葉を伝えようとも、

その感動を味わっている人の目を見れば、その感動の深さは、わかる。

 

人は答えを求める性だと思う。

安定を求める事と、個人的に同じ。

人生に方程式があれば、楽だと思う(その人は、こうは思わないけれど)人もいる。

けれど、

知識や答えは、

持てば持つほど、自分を狭くする。

かと言って、

軽んじていては、浅い人になり得る。

「持つ」と「在る」の違いのように、

知識や答えは変化する。

その人の、その在りようは普遍的なものになる。

 

どちらも並行して、おろそかにできない大事な要素に思う。

 

「では、何のために?」

 

ほら、

また答え探しを始めてる(笑)。

 

 

 

でも、

実は、「ソレ」とか「ソレラ」は、有ったりもする。

 

 

(考えがまとまらないわ。まだ。すまんせん。)

あけましておめでとうございます。2017年。平成29年。

あけましておめでとうございます。

 

と言っても、この辺境のブログに誰が来るというものでもなく、

ただ自分に対してのけじめ、備忘録ですが。

 

今年も、生業を継続していくでしょうけれど。

スタンスは変わらずに、やっていく事でしょう。

 

さて、

 

人間を相手にしている仕事、退陣援助職を生業にしているが、

僕の分野で行くと、どうしても「医療」と「福祉」になってしまう。

だから、詳しくないことは書けないし今は興味もあまりないから、

つらつら、書く。

 

福祉系の仕事をしている人が、医療系の仕事に転職する人がいる。

簡単、いや、具体的に言うと、

介護職が看護職になったりする。

まぁ、それはそれでいいのかもしれないけれど、僕はこういう人たちは

どこまで介護を知って、転職種(造語)したのだろうかと思う。

けれど、探求しない介護職よりは腐ってはいなかったんだろう、とは思う。

 

 

僕が介護職から抜け出せないでいるのが、人間がわからないからだ。

実は、抜け出したこともあるのだけれど、戻ってきた。正確には。

結論から言うと、

僕の考える仕事に終着点はないし、結論はないし、完成はない事だけがわかっている。

僕の人生は、未完成のまま終える。

そしてそれで僕は十分だと思うのだけれど、年始から縁起でもないことを言っているのかもしれないけれど、

完成してしまったら、それは大きな「誤解」であり「嘘」だからだ。

人間という存在は、つかみどころのない存在であって、

人の心というものは、まったくわからない。

常に想像する。

だけれど、答えなんてない。答えらしきものに到着した途端、別の答えに行き着いてしまう。

もしくはその可能性を含んでいる。

心理学、哲学などは、一定の指針になりはするけれども、しょせんは統計学であって、

学問(科学)にしたとたんに、それは個別性から離れていく。

僕は学術者ではないから、一定の法則を知ることは役に立ってもそれは同時に囚われる要素を持つこととなる。

この相対する法則を常に感じて(そんなにアンテナは張ってない、疲れるね(笑))、

考える時には考える。

 

現在の科学とは、かりそめの約束事であるだけだという事を、改めて感じていたい。

下顎は不変ではないし、それは統計上の暫定値であるだけであって、

その暫定の上に、現在の医療は成り立っているだけであるという事を、

真摯な医師は、既に気づいて、命と戦ってくれている。

(そんな医師に出会うと、本当に心から頭が下がる)。

 

心というわからない、安定していないモノを基盤として、

その上で毎日の仕事をするという事は、大変労働なんだと思う。

 

宗教が存在する事のゆえんは、恐怖であり、

人は常に安定を求める。

不安定なものに、人間は基本的に恐怖する。

宗教は絶対的であって、他の可能性を否定すると僕は思っている。

僕にとって宗教は、安定を求める人の心の在り方に依拠していると思っている。

(だから宗教を否定しないけれど、妄信している人を否定する)。

それほどに、宗教がマヤ文明の古からあるように、

「何かを決定してくれるモノ」

「絶対を保証してくれるモノ」

「方針を決定してくれるモノ」

を、本能的に人は求める。

決定的に、存在の不安感としてこの点に、人間が悲しいくらいに弱い。

そんな人間であり、自分がその一人であることが愛しく思えるくらい、人は安心を求める。

しかも、心の安心という、なんともつかみどころのない、

元来不安定であることが規定されているモノに対して、安定を懇願している。

人に対しての、

「慈愛」「慈悲」「慈しい」

こんなような、感情が根底にあるのだと思う。

僕がこの仕事から抜け出せないでいるのは。

まったく、人は悲しい存在です。

 

 

だから、

医療職に転職種する動機が知りたいな、と思う。

医療という科学を基盤にしている職種へ行く事は、

まったく介護という、非科学的な分野からの脱皮としては、

対象者が人間であるという事のみ同じであっても、

集中する点が違う。

 

心を看ない医師でも、病を治してくれれば、感謝できる。

優しいだけで、病気を知らない古い薬しか出せない医師は社会悪だ。

 

「心なんて関係ない」、そんな援助職に、自分の何を話せるというのだろう。

僕の仕事のそのほとんどは、9割は、

相手との信頼であって、真摯に取り組む事以外に持続する方法が無い。

「おクスリ」なんてなくって、日々の「思いやり」しかない。

できていないから、日々の努力を必要としているという、至極当然な姿だ。

 

不安定に疲れてしまったから、医療職なんですか?

(お給与ですか(笑))

 

今年も、

「不安定に、安心して安定する。」

という矛盾するようで、

とても自然な姿を目指し続けるものでありますように。

そして、永遠にそこに自分は行き着かないことに、呆れ疲れてしまいませんように。