介護保険に負けた、「福祉」

福祉 には哲学が必要だ。

認知症の方の援助の難しさは。

ユマニチュード、という流行の援助方法があるらしい。

個人的には、古くから実践されてきたものを体系化しただけの、

特に真新しい援助方法でもない。

 

当たり前と言えば、当たり前で、

認知機能が低下している方に対しては、

言語的なコミュニケーションよりも、

仕草や表情、触れ合いの方が「動物的に」理解できるということだと思っている。

言語を解釈し認知するよりも、感情優先になる時期では動物的な感覚の方が伝わるに決まっている。

 

僕はユマニチュードという援助方法の、さわりしか知らない。

さわりも知らない。

雑誌の2ページくらいを読んだだけだから。

だから、未熟な解釈で批判しているだろう。けれど、きっと深く学んだとしても、

援助方法には、真新しさはない。

これからも、ずっと。

相手が人間である限り。

 

認知症の方に対する援助において、最も難しいのは、

ご利用者への援助の仕方ではなくって、

援助者自身の、心がけ、配慮、思いやりだ。

 

「トイレの扉を閉めていますか?」

「声掛けして介助を始めていますか?」

認知症の方に失礼な事をしたら、謝っていますか?」

きちんと、

「相手はわからない人だから、という油断と戦えていますか?」

 

相手はもしかしたらわからないかもしれないけれども、

それをしなかった、手を抜いた自分は、それをしなかったという事を覚えている。

2回目からは、少し葛藤して諦められる。そんな自分に少し引っかかる。

3回目には、簡単にそれをしない自分を許せる。

4度目には、それをしたってなにも心に引っかからなくなる。

 

「誇り」

何度も何度も失敗して反省しても、自分に問い続けるしつこさ。

愛情とは、相手を理解しようとする事、できなくても、理解し続けようとしてしまう、さが。

 

 

医療と介護の連携という無機質な言葉。

それぞれの専門職がクライエントの生活の質へと有機的に関わっていく姿こそ、現代の専門職連携ではないだろうか。
「有機的」とは、常に、時間とともに、時に逆行し、揺れ動き続けるあいまいさを維持した、固定や固着しないモノを言う。

お互いの分野を、役割をきちんと捉え、上手に頼り合い、キャッチボールをする事でリズムが生まれる。
単なる情報の提供と専門的な技術の依頼であれば、仕事をした気にもなるかもしれないけれども、それはあくまでも過程であって、手段の途中でしかない。
それぞれの専門職が判断したその人の生活の質を底上げするという目標への道程の進捗状況と再アセスメントを、不断無く繰り返すこと。その先に、個人の生活の幸せがみられるような統合感。
誤解を恐れずに言えば、各専門職はバラバラにその個人をアセスメントし目標を設定してもいい。
常に揺れ動くその人自身の持つ固有の目標を察する能力を磨いてさえいれば、「生活の質を高める」という山の山頂への道は何通りもあれども、たどり着く点は、山頂という一点に集結する。
サッカーで言うならば、監督からの指示ではなく、常に状況の変化する試合の中で各個人のプレイヤーが場面を判断し自分の持つ特色を発揮する。というようなこと。
ジーコ監督が目指したような、古いけど。
トップダウンでもボトムアップでもなく、右にも左にも傾くことのできるフラットな関係。
で、
これができなかったから、ケアマネジャーとかいう人が、時に本人の代弁者という形で現れる価値があるんだろう。
う~ん、<未完>

家族の思いの、尊さと。

最近、ターミナル期に関わらせていただく事が増えた。
とある日、初回アセスメントにてガンの末期と診断され自宅療養されているご本人とご家族にお会いする。
訪問すると、ご本人は寝ているとの事。
そこで、まずはご家族と日ごろの療養のされ方などを尋ね、情報を確認する。
あらかたお話し終えたころに、ご本人が起きた様子とご家族から教えてもらい、
ご本人にお会いするが、けだるそうに頷き挨拶をしていただけた程度であった。
.
なんとなく、飾られていたカレンダーに目をやると、
急速に体調が悪化してしまったという10日前くらいの日付の所に、
「 お父さん、早く良くなってください 」
という別居されている娘様らしき、筆跡。
.
自分の姿勢が、問われる。
大勢の中の一人として、さっきまで対峙していなかったか。
年末の、慌ただしい一年中で最も忙しい時期の訪問に、気のゆるみや焦りがあったのではないか、
.
訪問を終え、玄関を出た外はすでに暗くなっており、
冷たい風が相変わらずふいている。
「 なにができるか? 」 って、考えながら、
携帯電話を取り出した。
.
あるような、うその話。

老いを支援する、力。

日ごろ自分たちが「老い」という自然な現象に包まれたクライエントと対峙している。

老いは疾患ではなく治療の対象になり得るものではなく、不可逆的な進行性の状態である。

老いに伴って、誤解を恐れずに言えば、人は得るものよりも失っていくもののほうが多い。

若さを憧れ、若さだけで「あなたはいいわねぇ、若くって」というクライエントの言葉は、臨床家や援助者ならば多く聞かれる言葉であろう。

確かに、思想的には得るものもたくさんあると「教えられる時代」である老年期において、

事実は「失い続ける時代」であるともいえるのかもしれない。

少なくとも、そう思っている人と、僕は多く出会ってきた。

 

僕が、最近の関心ごとは、この治る見込みのない状況にあるクライエントに対して援助し続けるという難業は、

どういう動機から継続する力が出てくるのだろうか、というどうしようもない疑問である。

仕事として継続できるということは、何かしらの有意義さを感じているはずである。

それは、

達成感、恍惚感の一般は、「物の完成」「研究の成功」「事業の成功」つまり、

行動による結果に満足するという、具体的もしくは顕在的な事実によって体験されている。

しかし、援助者のそれは、上記のようなわかりやすい事柄として現れたと思えたことは、あまりない。

援助者から「ありがとうの言葉が何よりもうれしい」と聞く。

それはやりがいであると聞く。

しかし、そのクライエントはいずれ自分たちよりも先に「逝く」ことが自明である。

 

人生の終末時期に、そのクライエントに沿い続けられること。

そのために、援助者として何がその続けられる力になり得ているのか、関心がある。

 

老いに対して喪失感に包まれている。

治らぬ病気に対して悲壮感に包まれている。

そんな人々を目の前にして、何もできない自分に強い無力感に襲われる。

こんな人がいた。

そんなように、人の介助がないと動くこともできないクライエントが、

いつもの介助を行ったら「ありがとう」と言ってくれた。

僕は、申し訳ない気持ちでいっぱいになった。

なぜに、ありがとう、なのだろう。

あなたはできない、わたしはできる。

だから、わたしのできることを、あなたに提供する。

至極自然な動機だし、特別なやさしさでもない。

あなたの言った「ありがとう」は、あなた自身が老いという障害を負って、申し訳ない気持ちでいる証左でもあるんだろうか。

そうだとしたら、そう感じさせているのは、僕ら「老いる前の存在」なのだろうか。

 

何も格好つけることを言いはしない。

なぜ、援助者は「老い」や「不治の病」と対峙するクライエントを前に、

援助を提供し続けられるのか。

それは、「困っている人が目の前にいて、放っておけないから」という、

まったく科学的でもない、ノウハウにもならない、精神的に救いにもならない、

惰性的な慈悲の連続に、あるんだと思う。

親への愛情が形にならぬ時。

家で看取る事を第一の希望にされていた、娘様。
しかし、ご本人の状態は入院先の病院で悪化し、娘様ご自身だけならともかく、
他の家族の事を考えると、とても在宅に復帰でいるような状態ではない。
.
今まで頑張ってこられたご家族。
言葉はきつくて、ぞんざいな言葉も聞かれたけれども、
実は親の事が大事で、少しの私たちの連携の失敗も理由を問いただされた。
.
「自宅で看るのを諦めたのよ」
と、明らかに自責の念に駆られた娘様のお気持ちに、
精いっぱい考え抜かれた事。
今もおつらい気持ちでいる事こそが、愛情の深さである事。
そんな、事柄たちをお伝えして、電話を置いた。
「良い悪いがどこにあるんだ」
「正解なんてどこにあるんだ」
.
さて、
午後の訪問の時間。
約束の時間に間に合うかな。。。

小論文の書き方~個人的な作法~

小論文を書く時の、セオリーのようなものを、徒然と書いたりする。

全く個人的な見解だし、かつて学生の頃に何かの親書を一冊読んでそのまんまになっている知識の状態で書くわけだから、だらしない。

 

必要なもの。

 

① テーマ(訴えたい内容、主張)。

② そのテーマに沿った学問上の定説(あればなお良い)。

③ そのテーマに沿った「実体験」

④ 社会的に有意義である事で結ぶ。

 

これら、特に、①、②、③についての準備をできれば、終わったも同然なんだと思う。

②、③にいては、「題材」と呼ぶ。主張する事を裏付けるためのミソのようなもの。

 

 

それぞれに、少しずつ解釈を加えていく。

 

① テーマ

★ 学校や試験から、「課題」として与えられる場合もあれば自由設定(会社の企画書のような)の場合もある。

「課題」として限定されている場合には、少し窮屈な思いをする。その課題は、大きくは狙う資格やカリキュラムから逸れている内容ではないであろうから、日頃からの「自分はなぜこの学部(資格)を取りたいのか、という自問自答をしている必要が、多少ある。

この場合に、まずはすることは、

テーマに沿った社会的に有意義な主張を、考える。」

例えば、60分で論述せよ、という時間制限があるとしても、この主張の内容をどう言ったものにするか、それを裏付けるための題材(②③)はどんなことがあるか、に対して15分間くらい時間を掛けてもいいくらい、大事な点である。

ここをボヤ~っとさせたまま論文を書き始めると、何を言いたいのか支離列滅な論文が出来上がってしまう。「要注意」。

思いもかけない方向からのいきなりの課題に対しては、驚かずに、そうなったとしたら自分はどう思うんだろう、、、という想像でも主張としては十分であろう。

この場合、②の学問、学術的な裏付けにあたる定説は言及できないかもしれないけれども、説得力向上のために論点を少しずらして、どこでも、どんな状況下でも通用する「より良く生きたい」「より幸せを求めたい」「不安なく暮らしたい」等の、人間共通の感情に基づいた学術的解釈を混ぜてしまってもイイ。

きっと、ポイントは「~~について論ぜよ」と言われていようが、意外とそれについてだけ論じている論文は、②以降の題材にあたる内容は特に①で示された狭いテーマを逸れている事も多いはずである。

 

② そのテーマに沿った「定説」

★ ①の主張を、さも正しいと読み手に思わせるために、「これから主張することは自分だけが思っている事ではありませんよ」

と思ってもらう為に、誰かエライ先達(先人)の知識を拝借するという題材を用いて書く。あくまで誰かの主張なので、ピタッとはまる場合もあれば、初めからはピタッとはまらずに、若干の自分の解釈を混ぜてしまって自分の主張することの裏付けにしてしまう場合もある。

 

③ そのテーマに沿った「実体験や経験に基づいた題材」

 

★ ②が誰か他人から拝借してきた①のテーマを納得させる題材であるとしたら③はオリジナルの自分の経験からも①のテーマを主張できることのアカシになるような部分。

難しいようで、実は意外と簡単だ。①のテーマに沿うようなエピソードを自分の経験から探し出し、①のテーマに沿うように解釈してしまえばいい。時に、その時代に気付いていなかった内容であっても、こじつけてしまってもいいだろう。

自分の論文であるのだから、自分の体験を題材にしないと、きっと評価は落ちてしまう。誰かのふんどしで相撲を取らないように、ここの③で言葉キレイに、力強く「やる気」「自分らしさ」「熱意、熱さ」を相手に伝えられたら、ナイスだと思う。

 

④ 社会的に有意義であるという点で、結ぶ。

 

★ 論じている事が、独りよがりで自己中心的、マニアックでは有意義な論述ではない。ある程度万人に通用して、社会に貢献できる為に、この主張は正しい(有効)なのだという持論で結びたい。

多くの学問が何故あるのかというと、それは社会に有意義であるからだ。この点から逸れた論文は、価値を大きく失う。ニッチなものとなり、得点には至らないこともあるかもしれない。

であるから、「テーマに沿った社会的に有意義な主張」をまずは、考える。

そして、

「自分の主張は、社会に有意義であることを論じました。」

という体で終える。

 

難しいかなぁ。。。

 

 

ふ~。

とある方への、メール。現実社会への確認事項。

●●●●様

はじめまして。
かねてから疑問に思いつつ、あきらめるしかないのかなと思っていることを書かせていただきます。
私は高齢者福祉に従事しております。
高齢者福祉では、主に介護保険サービスや各自治体による多様なサービスで、高齢者を支えております。

しかし、これからの日本を考えるに、特に人口構成比の推移を鑑みるに、
日本の将来に楽観的なイメージを持てません。
参考までに人口の推移のURLを貼らせていただきます。
ttp://www.mhlw.go.jp/seisakunitsuite/bunya/hokabunya/shakaihoshou/dl/07.pdf
この超高齢社会で、年金がもらえない、高齢者の負担が増える、など、
色々と騒がれるのですけれども、
正直に申しまして、高齢者福祉に携わる私の実感として、
日本を維持するためには、高齢者の生活の質を落としてしまう事もやむを得ないのは自明ではないでしょうか。
私の業界では、みな恐くてこのような事を言える事はないのですけれども、
先のリンク先のように、生産人口に対する高齢者の人口を考えれば他の選択肢が思い浮かびません。
このリンク先の生産人口は15歳からとなっておりますから、正確には高卒や大卒の社会人一人に対する、高齢者を支える比率はよりシビアになります。

今の高齢者は、年金暮らしで大変であるとかお話しされる人もいるかと思いますが、
幸い持ち家を持っていらしたりされているのではないでしょうか。
私は現在40代でありますが、
私が高齢者という定義である65歳になるときには、若い方2人で私一人の年金、医療費、介護費を支えていただかなくてはいけません。
こんなの、どう考えても無理なのです。
ひとは自然の生き物ですから、老います。
ひとは、老いていく中で、どうしても医療と、医療よりも長い期間、介護のお世話になります。

国防であるとか、他国との関係性であるとか、今の日本には対外的な交渉事もいっぱいあるのでしょうけれども、
こんなに、わかりかっている高齢化少子化の問題を抱えている日本に、
それら確定ではない課題を語る資格があるのかどうか、疑問です。

国民の皆様はどう思っていらっしゃるのでしょうか。
今の日本は、「老い」や「死」を見て見ないふりをします。
都合の悪いものには、見て見ないふりをします。
ですから、私が実務でお会いする国民の皆様は、医療の問題や介護の問題にご自分が直面して、
「初めてこんな脆弱な制度でしかなかったのか」と落胆され、
多くの生産人口の貯蓄を切り崩し、医療と介護にお支払いいただきます。

問題の根幹は、高齢化ではなく少子化です。
移民を受け入れ、生産人口を上げる以外にこの問題を超えていく方法がないと思うのです。
私はこの仕事をしていますけれども、
若い方に対しては、高齢者に多額の保障を提供している現状に、申し訳なさを感じ切っています。
私の仕事が、将来あるのか、わかりませんけれども、日本の存続の維持の問題ですから、
私の職がなくなる事で、日本が維持できるのならば、それはそれでいいと思っています。

長くメールをしてしまいましたが、
日本国民のみなさまに、いずれこのような時代が確実に来ることが決まっているという現実を見据えて、
これからの生き方を検討してもらえるきっかけをと思い、メールしました。
知らないで現実に直面する事は、悲しい事ですし、もしかしたら思いもよらない方法論を考えられる方もいるかもしれない。
少なくても、この業界にいる専門職と言われる職種には、この問題に解決方法を持っている方はおりません。

●●様のご意見を聞きたくも思います。