介護保険に負けた、「福祉」

福祉 には哲学が必要だ。

冷や汗と、主任ケアマネジャーの研修申込みと。

今日は蒸し暑かった。

最近、訪問などで少し緊張すると無駄に汗をかくようになった。

体調にもよるし、こちらの会話へのモチベーションにもよるし、そのご利用者や雰囲気が和やかか緊張的であるかにもよるのだけれども、

今日は会議において、ひとりで無駄に汗をかきまくった。

 

これは、自分にとって結構なコンプレックスでまず、恥ずかしい。

「なんでこの人はこんなに汗をかいているんだろう」とおもわれてはいないか、と想像するだけで余計に汗が出る。

まいった、と思う。

抗えば抗うほどに、増強するものらしいから、

時間が経てば、その汗も自然に引いていくのだけれども、

あらがわずに、自分を客観的な上のから自分を見下ろして深く息を吐く。

という事を心がけようと思った。

 

さて、結構これは恥ずかしいだけで大きな問題でもないんだけれど、

今回の主任ケアマネジャーの研修の申込みをするにあたって、保険者の推薦が必要になる。

その推薦を獲得するために、テスト的なものを受ける事となっているんだけれども、

日常業務の中で、そのテストに向かう資料作りも並行して行わなければいけない。

 

書類が多いと言われているケアマネジャーなのに、どれをどこまで行ったのか、不明になりつつある。

あぁ、今のうちならばまだ取り返せるのだから、

一覧表をきちんと作成して記入していかなくてはいけない。

 

明日、やろ。

 

あぁ、明日はもろに訪問一色なんだったわ。

事業所の開所と、いろいろ。

事業所を開所して1ヶ月程度経つ。

 

いまのところ、忙しさにかまけてご利用者への視点が減ってしまっていることは、歪めない。

もう少ししたら、ご利用者への視点も回復していくかな、と思うけれども、今度は事業所の運営に対してのアプローチがしたくなってしまうだろうし、

そもそも、僕にしかできないことをすることが、僕の給料の源泉であるはずだから、一般職と同じことをしていては給料泥棒であるというわけでもある。

 

ケアマネジャーは他職種であるなぁって、いつも思うのだけれども、管理者であり、かつ、所長という立場になり、余計にその視点の多さややることとやりたいことの多さに集中力の散漫が目立ってしまう。

 

今週は、これこれに集中しよう、という目標というか方針を立てて、

それに向かって継続努力していかなくてはいけない、と、思う。

 

「7つの原則」にあるように、

緊急ではないが重要なこと、に、いかに時間を使っていけるかどうかが事業の成功に導かれていくのであろう、と、思う。

 

重ねて言うが、一般職と同じことをしているだけの自己満足の上司であったり、所長であったりするということは、

会社にとっては害である。

 

緊急ではないが重要なこと、

それを行う時間を優先的に、シフトに入れてしまう、という事が大事である。

 

いわゆる、時間さえかければ誰でも負えられる「作業」というものに、どれくらいの時間がかかるのかを数値を把握して、

この「緊急でないが重要なこと」をする時間を捻出すること、も、コツの一つであろう。

働く意味。

働くことに疲れたら、

僕には戻れる場所がある。

 

働くということはどういうことなのか、

それがわかったから。

 

働くということは、日々のご飯を食べるためにお金を稼ぐこと。

または、食べるものを作って日々の食事を摂ること。

 

それ以上ではない。

 

確かに、名声だとか、高給であることとか、将来の安心であるとか、

僕も、人も、求めることがあるけれど、

順風満帆なときにはそう思っていいと思うけれども、

本当のピンチとか、勝負に逃げる必要があるくらいに追いつめられたときには、

こういう場所があるんだって言うことを知っているか、知らないでいるかで、

その人の生きる力が、雲泥の差が出る。

 

僕は本当に、

蟻であるとか、昆虫、野原の鳥に学ぶ。

貯金や名声なんて無い。

自分がなぜ虫であるのかという疑問もない。

毎日、餌になりそうなものを鳥は起きている間中探し、日が暮れたら巣に戻る。

これが働くということ。

だけれど、休日もない。

お腹が空かない日がないように、働くということの休みもない。

 

シンプルに、

働くということは、ご飯を食べるため。

そんな場所もある。

 

名声を追いかけると、行き詰まる時がある。

そういうときに、選択肢の多さは必要で、心の余裕はその後の選択をポジティブにする。

最終の砦に生きられる自信、というものをもつと、

大抵のことは、遊びに思えてくるものだ。

父。

あんまり急なお別れだったから、後悔だらけだよ、父ちゃん。

 

たまにしか実家に帰らなかったし、

そんなに嚥下ができなくなっていたなんて知らなかった。

 

たまに帰ったら父ちゃんは俺のことは嬉しそうに迎えてくれたね。

仕事は忙しいのかとか、彼女はどうしているのか、とか、

俺の子供の事とか、

色々心配して聞いてくれたね。

当たり前のことが、父ちゃんのやさしさだったんだってこと、

今、わかったよ。

もっと、ひとつひとつの心配に、きちんと答えてあげればよかった。

少し面倒くさそうに、返事をしていたよね。俺は。

ごめんなさい。

 

俺、

介護の仕事をしてきていたらから、

父ちゃんが息子へ話しかけていたのに、

俺はきちんと息子として父ちゃんの前にいれたかどうか自信がないよ。

まるで、要介護のご利用者の前にいるように、

営業用の声掛けをしていたんじゃないかって、

くどくどと心配事を訴えてくるご利用者への対応のように、

父ちゃんと話しをしていたんじゃないかって、後悔している。

 

父ちゃん。

俺、父ちゃんの前で、きちんと息子としていたかったよ。

 

どうしようもない父ちゃんだったけれど、

俺も、、どうしようもない息子だったね。

 

父ちゃんから教えてもらえたことは少なかったけれど、

その代わり、俺が何をしても、わかってくれていたのは、父ちゃんでした。

自由にやりすぎて、どうしようもなくなった時に助けれてくれたのは、

父ちゃんでした。

 

もっと、

きちんと、父ちゃんに向き合って、

きちんと、父ちゃんの息子でいたかった。

いつか、俺には父親がいないから親父はどうすればいいかわからないんだって、父ちゃんは自分の事を言ってたね。

 

遅くなったけれど、

俺は、そんな父親でいてくれて、幸せでした。

これからは、

少し距離があるけれど、きちんと息子として逢えたらいいなと思います。

 

息子と話したがっていた父ちゃんなのに、

素直に息子でいられず、強がりでしか話しをすることができなくて、ごめんなさい。

 

ありがとう、

きっと、いつもいつも、心配してくれていたんだよね。

実は、

俺、父ちゃんが大好きだったんだって、今、思ってます。

認知症の方の援助の難しさは。

ユマニチュード、という流行の援助方法があるらしい。

個人的には、古くから実践されてきたものを体系化しただけの、

特に真新しい援助方法でもない。

 

当たり前と言えば、当たり前で、

認知機能が低下している方に対しては、

言語的なコミュニケーションよりも、

仕草や表情、触れ合いの方が「動物的に」理解できるということだと思っている。

言語を解釈し認知するよりも、感情優先になる時期では動物的な感覚の方が伝わるに決まっている。

 

僕はユマニチュードという援助方法の、さわりしか知らない。

さわりも知らない。

雑誌の2ページくらいを読んだだけだから。

だから、未熟な解釈で批判しているだろう。けれど、きっと深く学んだとしても、

援助方法には、真新しさはない。

これからも、ずっと。

相手が人間である限り。

 

認知症の方に対する援助において、最も難しいのは、

ご利用者への援助の仕方ではなくって、

援助者自身の、心がけ、配慮、思いやりだ。

 

「トイレの扉を閉めていますか?」

「声掛けして介助を始めていますか?」

認知症の方に失礼な事をしたら、謝っていますか?」

きちんと、

「相手はわからない人だから、という油断と戦えていますか?」

 

相手はもしかしたらわからないかもしれないけれども、

それをしなかった、手を抜いた自分は、それをしなかったという事を覚えている。

2回目からは、少し葛藤して諦められる。そんな自分に少し引っかかる。

3回目には、簡単にそれをしない自分を許せる。

4度目には、それをしたってなにも心に引っかからなくなる。

 

「誇り」

何度も何度も失敗して反省しても、自分に問い続けるしつこさ。

愛情とは、相手を理解しようとする事、できなくても、理解し続けようとしてしまう、さが。

 

 

医療と介護の連携という無機質な言葉。

それぞれの専門職がクライエントの生活の質へと有機的に関わっていく姿こそ、現代の専門職連携ではないだろうか。
「有機的」とは、常に、時間とともに、時に逆行し、揺れ動き続けるあいまいさを維持した、固定や固着しないモノを言う。

お互いの分野を、役割をきちんと捉え、上手に頼り合い、キャッチボールをする事でリズムが生まれる。
単なる情報の提供と専門的な技術の依頼であれば、仕事をした気にもなるかもしれないけれども、それはあくまでも過程であって、手段の途中でしかない。
それぞれの専門職が判断したその人の生活の質を底上げするという目標への道程の進捗状況と再アセスメントを、不断無く繰り返すこと。その先に、個人の生活の幸せがみられるような統合感。
誤解を恐れずに言えば、各専門職はバラバラにその個人をアセスメントし目標を設定してもいい。
常に揺れ動くその人自身の持つ固有の目標を察する能力を磨いてさえいれば、「生活の質を高める」という山の山頂への道は何通りもあれども、たどり着く点は、山頂という一点に集結する。
サッカーで言うならば、監督からの指示ではなく、常に状況の変化する試合の中で各個人のプレイヤーが場面を判断し自分の持つ特色を発揮する。というようなこと。
ジーコ監督が目指したような、古いけど。
トップダウンでもボトムアップでもなく、右にも左にも傾くことのできるフラットな関係。
で、
これができなかったから、ケアマネジャーとかいう人が、時に本人の代弁者という形で現れる価値があるんだろう。
う~ん、<未完>