介護保険に負けた、「福祉」

福祉 には哲学が必要だ。

維持期のリハビリテーション。

リハビリテーションの過程としては、

「急性期」「回復期」「維持期」とあるらしい。

 

この分野において、介護職がかかわる時期としては「維持期」に該当するリハビリテーションであろう。

残存機能(何だか時代遅れな表現の印象)を維持して行く事が目標である期間。

(経験的に、継続して維持して行く事で徐々に回復傾向となる)

このリハビリテーションにおいては維持期に当たる時期に、

介護職はご利用者と関わる事となる。

 

リハビリテーションの概念では、

「できるADL]と「しているADL」への転換、なんていうのを謳われているらしい。

 

リハビリテーション室では「できるADL」でも、

病棟や居室にいくと「しているADL」とはならずに代わりに看護介護職が行ってしまっているという現象。

看護介護職にとっては、その方が早く事が済むから行ってしまうという事も多々ある。

これは、簡単に考えれば合理的ではない。

看護介護職の介助を必要としない状態に回復していただければ、

将来的には全く解除する時間を必要としないご利用者に変われるのに、

その機会を奪ってしまっている、短絡的な発想であると同時に、、、

「誰も、他者の介助をしてもらいたい人なんていない」

という当たり前のご本人の意思の具現化を目指す職種として、いただけない。

お互いの為に、

「残存機能を活かす」という事は意識的に行われた方がいい。

 

よくある場面では、

靴を時間を掛ければ履けるけれど、介助をしてしまう、という場面。

例えば、1か月、看護介護職が精一杯時間を掛けて、

ご利用者自身に靴を履いてもらうという事をしてもらえば、その方は以後、

靴を履くために介助を必要としないで生活を送る事ができる。

 

現在の、特に介護職は、

積極的にセラピストの意見を活用するといいと思う。

 

その方の介助に置いての苦労する場面、

自立できる可能性やリハビリテーションの目標がどこにあるのか、

その方という一人を見つめていても、介護職とセラピストの視点が異なっていては、

先の、

リハビリテーション室でできるけれど、生活場面では活かされない動作が拡張していく。

介護職にとっての困難さを、セラピストに相談する事によって、

セラピストはそれを軽減するための目標を立てられるか、

もしくは代替案としてその他の方法を提案できるか、等、

役にたってもらえる事は大いにある。

 

そして、それを一番望んでいるのもセラピスト(PTやOT、ST)だ。

自分の行う機能訓練が、リハビリテーション室だけで行われているという事に、

やりがいを持つセラピストはいない。

職命として日常生活の回復を目指して、セラピストはリハビリテーションを行う。

その為には、看護介護職は不可欠である。

リハビリテーション室で獲得した「できる動作」を、

日頃の暮らしの場面でも行えるように、機能訓練はされている、はずである。

介護職ができる動作を代替する事なくしてもらっている事で、

セラピストは次の目標を立案できる。

併せて、この場面で介護職も是非、次の目標をどこに設定すると適当であるか参加する事が必須であろう。

どこまでも、リハビリテーション、維持期リハビリテーションは生活に根付いており、

生活を支援しているのは介護職なのだから。

 

そして、機能回復訓練を超えた、リハビリテーションの理念とは、

「全人間的復権」

であると言われているのならば、これほど介護職に近しい専門職はない。

 

「障害を負った後の方が、あぁ、自分らしい暮らし方ができているなぁ」

と思ってもらえる事を目指す職は、

第一には、セラピストと介護職だろう。

(医師や看護師は、第一義として「治療」があると思うので)