その、人を見るということの難しさ。
自分というフィルターを通してしか、世界は感じられない。
そんな人間としての限界の中で、人材の育成なんていう途方も無い作業を仕事としての役割を持たされて、いる。
誰かが言っていたな。
「人を育てる、というと気がひける。お互いに成長する、とでも言うべきかな」
なるほど。
それもそれで、合点の行く表現でもある。
会社や組織、専門職としての知識と技術。
これかは最低限というラインのようなものがある。
最低限の基準はあるのだけれど、仕事、専門職には天井がない。
上には上があるし、対人援助の難しさは、「わからない」ことへの不断のない追求にこそあるのだから。
新人であったりすると、まずは専門職、その仕事で大事にするべき視点に対しての、
最低限の価値観と知識と技術の習得を目指してもらう。
まず、ここから難しい人の多さに戸惑い、嘆く。
「なんで、わからないのか、わからない」
のだ。
同じ言葉を用いても、同じ表現をしていたとしても、
私のそれと、新人のそれは、異なっていて。
だから、
私にとって、なんでわからないのか、わからない、という状況は、
新人さんにとっては、
わからないことを言っているのに、わかるように教えてくれない。
に、きっと変換されて、通じているんだろう。
わかりやすく、教える。
そんなかんたんでもないことを、簡単に言ってのける。
このわかりやすい、という言葉の意味は、
「新人さんの世界の中で、同じ言葉を使って会話をする」
という事なのかもしれない。
だから、
新人への教育というものをする前に、
「貴殿、貴女は、どんな人なんですか?」
って、先輩は時間をかけて、雑談を駆使して、仕事ではなく、その人を診る視点で、
同じ「ような」世界の中で会話を始めていく。
その人の中で、私なりの解釈を少しずつ話しを通す。
前よりかは、通じているようだ。
彼女の笑顔が、今まではなかった笑顔に変わっている。
そうか。
これが、こちらの価値観を押し付けないという、アタリマエのことだったんだ。