介護保険に負けた、「福祉」

福祉 には哲学が必要だ。

台風が過ぎて。

「台風が過ぎて、日常の普通が戻ってきたよ」

 

 

僕にとっての日常。

誰も居ないこの家の中で、静かな音楽と一緒になんでもない時間を過ごす。

時の流れはゆっくりで、しかし、少しずつきちんと時計の針は生真面目に動いている。

「動いていないのは、僕の心」

 

時々、僕は、時間というものは果たして本当にあるんだろうか。

そんな、少し変わりものであったらよく言うようなセリフの中に、ご多分に埋もれずに思ったりもする。

今の静けさがあまりにも静寂で、周囲からの影響を受けないものだから。

僕は現在の時間に生きているのじゃなくって、

過去の終わった出来事の中の僕に生きている、そこに生きようとしているんじゃないかって、思う。

例えば、ソレが僕にとってホントにそうであるのならば、

僕は現在に生きているということでなくって、過去の中に生きているということになるのかな。

もう少し言えば、今と過去の境目も無くなってしまって。

 

そんな時間を、時間と呼ぶには現実味が無くって、

こんな今は、心だけが動いている、どこでもない、どこかで。

 

「人は今の繰り返しの中で生きているんだ。未来にも過去にも生きることはできないんだよ」

「今を生きろ。今を生き切れ。在るのは、過去でも、未来でもない。永遠に続く今だけだ」

 

そう、物知りの人が言うらしい。

けれど、僕は思ったんだ。

今この瞬間思ったことは、思うと同時に過去になったことなんじゃないかって。

最も素晴らしいのは、時間の中に在るんじゃなくって、

うまく言えないんだけれど、

一番の本当の生きている世界って、思いも寄らない、ほんとうの意味で思いにも至らない心の世界で。

例えば、その日、初めて窓を開けて朝の日差しを浴びるとする。

眩しいという感覚と、温かいという感覚の中にこそ、動いたモノが間違いのない。

「生きている世界」なんじゃないかなって。

 

だから、

過去でもない。未来でもない。まさか今現在でもない、

時間という人間が考えたシステムに影響されていない、世界で生きている(?)僕は、

「生きているのでもなく、死んでいるわけでもない、移動する感覚器」

なのかな。

 

けれど、さ。

僕は、それではあんまりにも、寂しいからって、

過去のすべての中で、生きることを選んでいるんだって、今はそう思う。