AIを否定はしないけれど。
人工知能の、現在と未来。
なんて、もう古いのだろう。
人のやることだから欠点もあるし、便利という不便もあるんだろうし、
人工の知能を必要とするほど、人間の生活は複雑化したんだろうか。
って、思う。
仮にそう、複雑になったのだ、としても、
その複雑系の社会に、人の幸せがあるんだろうか。って。
今の社会は便利で、
だけれど、便利になるためのツールはいつも最先端で付いていくことに辟易する。
iPhone、直感的な操作なんて、素晴らしいツールであるけれども、
このツールができたおかげで、人の時間の消費と欲望は増したと思う。
便利や刺激を求めてやまない社会というのは、
まるで原子力発電のように、使い物にならなくなった後の処分の仕方がわからない「シロモノ」のようだ。
貧しすぎてシンプルな暮らしは、豊かさと刺激を求めて、
複雑さと24時間動き続ける社会は、静けさと温泉を求める。
お金で動く社会に守られながら、
お金の奴隷である生き方を否定したい、と思い続ける。
こんな、矛盾、と。
愛の定義は統計的な把握はできても、それを感じることは、
人間にできても、コンピューターにはできない。
なぜなら、愛を感じることというのは、
人間の有限性と、矛盾の存在の儚さ、時間とともに変化する無常。
そして、それらどれでもない時間軸の中に、愛を感じていくのだから。
重ねて言うと、
人は、人工の知能を必要とするほどに、完璧さを必要なんだろうか。
ただ、生きるのに、必要だろうか。
AIをディスっているんじゃなくって、
逆に、無責任に、欲望と興味、止まれない新しい物好きな人間の佐賀のために、
ソレだけのためにであるのなら、
そんなのに生まれされるコンピューターがかわいそうだと思うから。
同時に、
そんな、おろかで賢い、人間というものが、なんとも未熟で完璧に人間らしく歯止めなくしょうがなくって、
愛しい気持ちにもなる。