介護保険に負けた、「福祉」

福祉 には哲学が必要だ。

言語を超える。

とある人への、応えとして書き綴りたくて、書く。

(だから決して「答え」じゃなくて。)

 

言語とはコミュニケーションの為に誕生し、

現代の情報化社会では、言語(以下、言葉)を用いて誰かと交流する事が

非常に重要な要素になった。

僕も、会社での企画書であるとか売り上げ報告のわかりやすい伝え方であるとか、

周知する書面であるとか、とかく言葉を用いて社会は成り立っている事実を、

全く否定しない。

わかりやすい文章を書く事は、社会人の能力として非常に重要だし、

書かれていることを、可能な範囲誤解無く理解する読解力も必要だ。

 

しかし、言語とは、対象者との共通理解があって初めて成り立つ道具でもある。

言葉は、その単語に定義を必要とする。

その定義を共通の理解として、人は人とコミュニケーションをとる。

ここで問題になってくることが、

「共通にきちんと理解できるのか?」という、問題。

特に、概念的な、

「愛情」であるとか、

「憎悪」であるとか、

「やさしさ」であるとか、

そういう類の、抽象的な言葉は、

人それぞれによって、定義する地点が違う。

 

Aというコンプレックスを持っている人にとっての「やさしさ」と、

Bというコンプレックスを持っている人にとっての「やさしさ」は、

当然異なる。

 

言葉を用いてコミュニケーションをとるという事は、

情報を伝達する事においては誤解は少ないだろうけれど、

こと、

感情を相手に伝えるには、最も困難な伝達ツールだ。

心理学上の、表情しぐさ声のトーンで7割語っている、なんていう(7割だか8割だかは確かでない)統計を持ち出さなくても、

「あんなに楽しかったんだ」という気持ちを相手に伝えるには、言葉は不適格であると思う。

無邪気な笑い方で、無邪気な格好で、はしゃいで騒ぐことの方が、

「楽しい」は相手に伝わる。

小説家は、ひとつの伝えたいことに1冊の本を要するくらいに、

詩人や俳人が、言葉を用いながらも、いかに言葉から離れられるか、単語を駆使するように、

言葉や文章自体に意味は無くて、

それから想像し思い馳せて来る感情こそが、表現者の意図であろうから。

言葉は、それほどのモノになりえない。

きっかけ を作りはするかもしれない。

言葉を使う表現者にとって、言葉ほど歯がゆい、面倒なものはない。

 

そして、優しさを定義する、という、手段に対しては、

今まで話したように、あまり意味のない、事だと思う。

意味を持っているのは、

「なぜ優しさに「定義」を求めたのか?、という、動機」の方にあるのだと思う。

そしてそれは、

最終的に、自分の「在り方」の問題になってくる。

充足しているか、不全感を抱いているか。

前者なら、定義には無関心だろうと思う。

後者なら、定義に頼りたい心境であったのかな、と思う。

 

やさしさ を伝えるために、

やさしい という単語は使わない。

使ったとたんに、誤解や噓になる。

やさしさはきっと、

定義づけられて固定化されるものではなくって、

感じるものであるし、それでしかないんだと思う。

便宜上、簡単に表現できないもんだから、

人は「優しい」なんて言うんだろう。

 

絵画を見て、

その感動を伝えるのに、幾千の言葉を伝えようとも、

その感動を味わっている人の目を見れば、その感動の深さは、わかる。

 

人は答えを求める性だと思う。

安定を求める事と、個人的に同じ。

人生に方程式があれば、楽だと思う(その人は、こうは思わないけれど)人もいる。

けれど、

知識や答えは、

持てば持つほど、自分を狭くする。

かと言って、

軽んじていては、浅い人になり得る。

「持つ」と「在る」の違いのように、

知識や答えは変化する。

その人の、その在りようは普遍的なものになる。

 

どちらも並行して、おろそかにできない大事な要素に思う。

 

「では、何のために?」

 

ほら、

また答え探しを始めてる(笑)。

 

 

 

でも、

実は、「ソレ」とか「ソレラ」は、有ったりもする。

 

 

(考えがまとまらないわ。まだ。すまんせん。)