メルカリにハマる。
実は最近、メルカリにハマっていたりする。
と言っても、何でもかんでもというわけではないんだけれども、
結構高いブランドのバック(メンズもの)を買っていたりする。
比較的きれいだし、お安いし、日本ならでは、で、相手も信頼できる。
真面目な国民性って、これが当たり前なんて思っているけれども、
外国ってどうなんだろうか。
メルカリだったかな。
違うとしても、これと似たようなシステムのアプリが外国にもできたと聞いた。
それは、発展しているんだろうか。
ウーバー、だったっけ。
民間タクシーに関してだって、実は日本のほうが普及しやすい国民性であると思うけれども、
これはウーバーの運転手にはなんの社会的な保障がないという点で、日本人には毛嫌いされてしまうだろうな。
介護と、ビジネスの融合点を模索している。
なんか、面白いことができないだろうか、と悶々としている。
それほど必死に考えているわけでもないのですけれど、忘れないように、というか忘れられるはずもないのだけれども、
常に頭の片隅に置いておけば、何かの拍子にヒラメクこともあると思う。
発明と言うと大げさなんだけれど、イノベーションというのは、
思考の6割以上を常に占めている者へ与えられる、ヒラメキであるように思う。
という事は、イノベーションは、日常生活の当たり前の生活動作や思考の中にある要素と、融合してイノベートされるということの証左でもある。
って、書いてみる。
自分は自分のために、生きづらい。
と、あるところにも書いたのだけれども、
簡単に言ってしまうと、人間は自分のために生きるということは難しいな、と思う。
もう少し言うと、
自分のために生き続けることは難しい、と思う。
例えて言えば、
今日、肉料理ばかりだから野菜を食べよう、とか。
最近運動不足であるから、運動を習慣にしよう、とか。
「なんのためにそれをするの?」という問いに、
「自分のためだよ」って応えることは容易いけれど。
それをずっと続けるという努力は、自分の自己満足だけでは終了してしまいがちだと思う。
「なんでそんなことを、毎日飽きもしないでやっているの?」
「僕には大事な人がいるんだ」
本日、友人が来訪し、引っ越しの荷物を預かって欲しいと。
僕はなんとなくわかるように、友人が極端に少ない。
親友である友人は一人しかいないし。
逆に、それ故というわけでもないのだけれども、
その友人とは信頼しきっている。
その友人が実家を建て替えるということで、
ある程度の荷物を預かって欲しいとの事。
もちろん了解し、空いている2階の真ん中の部屋に置くことにした。
久しぶりに、親友の奥様も一緒に来て、
何年かぶりの歓談を楽しんだ。
何年か振りに会ったとは思えない程度に昔も今も自然に簡単に打ち解けてしまって、
そんな友人の奥様であることが、嬉しい。
これからも、僕はきっと友人は少ないであろうけれども、
この大事な親友は、大切にしていきたいと思う。
何度目かの、チャレンジ。
このブログに書くということは、とても楽であるなぁって思う。
キーボードを打っていれば、勝手に感じに変換してくれる。
だから、一向に感じを覚えない。
だから、改めて1週間だけでも日記帳のアナログの方へ書いていこうと思う。
わからない感じがあったときに、とても便利なサイトがこれ。
規定でひらくページとして登録していたりする。
ではでは。
ケアマネジャーは理想高く制度の不具合を声に出して変えていくべき?
今日の担当者会議で、きちんとされているご利用者から言われたこと。
制度の矛盾や不効率なことが介護保険にはあまりにも多すぎる。
それらを国に訴えて変えていく必要があるのではないか、
国民を思って、制度の不具合を改善していく立場にいてもらいたいし、
それが明日の介護を造っていくものであるはず、と。
わかっていることを、正論を言われているな、と思う。
しかし、だから僕は現在のルールに従うつもりはない、というのとは異なる。
仮に、
日本の法律に不合理な点や理不尽な点があるとしても、
それを盾にして法律を冒してよいというものでもない。
提言は提言として、言論の自由に言われるように主張する自由はあるはずであるし、
それが将来の国を造っていくものの、末のものになっていくということに関しては賛成であるけれども、
それは、義務を果たした上での自由であるだろう。
主張する立場の矜持として持っておいたほうが良いものであろう。
法を犯した犯罪者が、日本の法律はおかしいと話したところで、
それが的を得ていようとも通ることは、「世間」が許さない。
この「世間」というものは、馬鹿であると同時に雰囲気という社会生活を維持する上で効率的に働くための、
長い年月をかけた慣習からくる、世間だろうから。
もちろん、世論であるとか世間であるとかいうものの限界はあって、
それが間違っているということもあるのだけれども、
大多数の世間が間違えていても、表現の自由から個人の見解を束縛する権利は、世間にはない。
志あるものが、古い世間と対峙して世の中に刺激を与えるという、水が濁らないようなアクションは大事。
それと同時に、世間が培ってきたノウハウにおいても一定の評価がなされなければいけないし、
最終的に、どちらが正しいということもなく、
それぞれの立ち位置や見ている視点により、応答は異なることが必然。
万人に当てはまる制度改革というものはなくて、
仮初の現段階での合理性というものを世間やお偉方は作り上げ、僕らに提示し義務化しているに過ぎない。
ここで、
最も困難であると思うことは、
選挙の投票率や言論、表現の自由を行使していくだけの時間と体力の余裕というものを、
現在の生産世代が持てているだろうか、というもの。
文化は平和時に開花するという。
簡単に言えば、暇でないと、現在以上の改革への労力は割くことが難しいという事。
時間があるのならば、義務化されている作業をこなしていかなくてはいけない、ということが優先される。
「7つの原則」流に言えば、
「緊急で大事なこと」に後ろを押されている状態のものに、改革は困難であるということ。
あぁ、今日は愚痴かぁ。
なんにも無いと思える過去の、使い方。
仮に、なにもない時間をたくさん使ってきたとして、
その過去を意味あるものへ変換できる方法というか、そうなってしまうことがある。
それは、人として成長することだと思う。
視野を狭く時間を使ってきたとしても、
今とこれからの時間で視野を広く知見や経験を通して自分の価値観や職業的アイデンティティが確立されると、
以前の意味のないと思えた時間たちに、意味があったことを知るということもある。
よく、意味のないことなど、人生にはない。
というけれども、本当に意味のない人生になりえてしまうこともある。それは、
未来においてまで、現在の視野に留まってしまい現在以上の考え方や思想を持てなかった人の、姿に思う。
今と未来において、
精神を研ぎ澄まして経験する事象から導かれた思想を持つに至れば、
過去の無為な時間たちにも意味が生まれてくる。
だから、意味は必然としてあるのではなくって自らが積極的に造っていくものである、という証左、かもしれない。
自分はどちらで、飯を食っているか。
最近、仕事上で弁護士の先生とメールにて遣り取りをすることが多い。
何度かのメールのやり取りで、最初の硬いビジネスメールから、徐々にくだけた職務とは少し関係のない内容のメールへと変化してきていて、
「打ち解ける」という楽しさを感じている。
同時に、専門職であるというライセンスが社会にこのように認知され許容されていることに、嬉しい。
自分はどちらで価値を提供して、賃金を得ているか。
1,人の欲を充足させている
2,人の不幸を待っている
これらのどちらかに、概ね分かれると思っている。
もちろん、言葉遣いは悪くって、もう少しきれいな言葉にもできようが、単純に行ってしまうとこのどちらかに体外なる。
1,である場合には、満足してもらって人を高揚、感動してもらうことを目標として、
2,である場合には、できる範囲その不幸を軽減したりそこからの回復を促せたりを目標とする。
たまたま、思ったのは、
弁護士という仕事は、こちらの2つとも兼ねる仕事だな、ということ。
まぁ、今日思ったことでなくって昔思ったことを書いただけだけれど。
たまたま、今日弁護士先生と砕けたメールをしていたので感じたわけだ。