介護保険に負けた、「福祉」

福祉 には哲学が必要だ。

ケアマネジャーは理想高く制度の不具合を声に出して変えていくべき?

今日の担当者会議で、きちんとされているご利用者から言われたこと。

制度の矛盾や不効率なことが介護保険にはあまりにも多すぎる。

それらを国に訴えて変えていく必要があるのではないか、

国民を思って、制度の不具合を改善していく立場にいてもらいたいし、

それが明日の介護を造っていくものであるはず、と。

 

わかっていることを、正論を言われているな、と思う。

しかし、だから僕は現在のルールに従うつもりはない、というのとは異なる。

仮に、

日本の法律に不合理な点や理不尽な点があるとしても、

それを盾にして法律を冒してよいというものでもない。

提言は提言として、言論の自由に言われるように主張する自由はあるはずであるし、

それが将来の国を造っていくものの、末のものになっていくということに関しては賛成であるけれども、

それは、義務を果たした上での自由であるだろう。

主張する立場の矜持として持っておいたほうが良いものであろう。

 

法を犯した犯罪者が、日本の法律はおかしいと話したところで、

それが的を得ていようとも通ることは、「世間」が許さない。

この「世間」というものは、馬鹿であると同時に雰囲気という社会生活を維持する上で効率的に働くための、

長い年月をかけた慣習からくる、世間だろうから。

 

もちろん、世論であるとか世間であるとかいうものの限界はあって、

それが間違っているということもあるのだけれども、

大多数の世間が間違えていても、表現の自由から個人の見解を束縛する権利は、世間にはない。

志あるものが、古い世間と対峙して世の中に刺激を与えるという、水が濁らないようなアクションは大事。

それと同時に、世間が培ってきたノウハウにおいても一定の評価がなされなければいけないし、

最終的に、どちらが正しいということもなく、

それぞれの立ち位置や見ている視点により、応答は異なることが必然。

 

万人に当てはまる制度改革というものはなくて、

仮初の現段階での合理性というものを世間やお偉方は作り上げ、僕らに提示し義務化しているに過ぎない。

 

ここで、

最も困難であると思うことは、

選挙の投票率や言論、表現の自由を行使していくだけの時間と体力の余裕というものを、

現在の生産世代が持てているだろうか、というもの。

 

文化は平和時に開花するという。

簡単に言えば、暇でないと、現在以上の改革への労力は割くことが難しいという事。

時間があるのならば、義務化されている作業をこなしていかなくてはいけない、ということが優先される。

「7つの原則」流に言えば、

「緊急で大事なこと」に後ろを押されている状態のものに、改革は困難であるということ。

 

あぁ、今日は愚痴かぁ。

なんにも無いと思える過去の、使い方。

仮に、なにもない時間をたくさん使ってきたとして、

その過去を意味あるものへ変換できる方法というか、そうなってしまうことがある。

それは、人として成長することだと思う。

 

視野を狭く時間を使ってきたとしても、

今とこれからの時間で視野を広く知見や経験を通して自分の価値観や職業的アイデンティティが確立されると、

以前の意味のないと思えた時間たちに、意味があったことを知るということもある。

よく、意味のないことなど、人生にはない。

というけれども、本当に意味のない人生になりえてしまうこともある。それは、

未来においてまで、現在の視野に留まってしまい現在以上の考え方や思想を持てなかった人の、姿に思う。

今と未来において、

精神を研ぎ澄まして経験する事象から導かれた思想を持つに至れば、

過去の無為な時間たちにも意味が生まれてくる。

 

だから、意味は必然としてあるのではなくって自らが積極的に造っていくものである、という証左、かもしれない。

自分はどちらで、飯を食っているか。

最近、仕事上で弁護士の先生とメールにて遣り取りをすることが多い。

何度かのメールのやり取りで、最初の硬いビジネスメールから、徐々にくだけた職務とは少し関係のない内容のメールへと変化してきていて、

「打ち解ける」という楽しさを感じている。

同時に、専門職であるというライセンスが社会にこのように認知され許容されていることに、嬉しい。

 

自分はどちらで価値を提供して、賃金を得ているか。

1,人の欲を充足させている

2,人の不幸を待っている

これらのどちらかに、概ね分かれると思っている。

もちろん、言葉遣いは悪くって、もう少しきれいな言葉にもできようが、単純に行ってしまうとこのどちらかに体外なる。

 

1,である場合には、満足してもらって人を高揚、感動してもらうことを目標として、

2,である場合には、できる範囲その不幸を軽減したりそこからの回復を促せたりを目標とする。

 

たまたま、思ったのは、

弁護士という仕事は、こちらの2つとも兼ねる仕事だな、ということ。

 

まぁ、今日思ったことでなくって昔思ったことを書いただけだけれど。

たまたま、今日弁護士先生と砕けたメールをしていたので感じたわけだ。

冷や汗と、主任ケアマネジャーの研修申込みと。

今日は蒸し暑かった。

最近、訪問などで少し緊張すると無駄に汗をかくようになった。

体調にもよるし、こちらの会話へのモチベーションにもよるし、そのご利用者や雰囲気が和やかか緊張的であるかにもよるのだけれども、

今日は会議において、ひとりで無駄に汗をかきまくった。

 

これは、自分にとって結構なコンプレックスでまず、恥ずかしい。

「なんでこの人はこんなに汗をかいているんだろう」とおもわれてはいないか、と想像するだけで余計に汗が出る。

まいった、と思う。

抗えば抗うほどに、増強するものらしいから、

時間が経てば、その汗も自然に引いていくのだけれども、

あらがわずに、自分を客観的な上のから自分を見下ろして深く息を吐く。

という事を心がけようと思った。

 

さて、結構これは恥ずかしいだけで大きな問題でもないんだけれど、

今回の主任ケアマネジャーの研修の申込みをするにあたって、保険者の推薦が必要になる。

その推薦を獲得するために、テスト的なものを受ける事となっているんだけれども、

日常業務の中で、そのテストに向かう資料作りも並行して行わなければいけない。

 

書類が多いと言われているケアマネジャーなのに、どれをどこまで行ったのか、不明になりつつある。

あぁ、今のうちならばまだ取り返せるのだから、

一覧表をきちんと作成して記入していかなくてはいけない。

 

明日、やろ。

 

あぁ、明日はもろに訪問一色なんだったわ。

事業所の開所と、いろいろ。

事業所を開所して1ヶ月程度経つ。

 

いまのところ、忙しさにかまけてご利用者への視点が減ってしまっていることは、歪めない。

もう少ししたら、ご利用者への視点も回復していくかな、と思うけれども、今度は事業所の運営に対してのアプローチがしたくなってしまうだろうし、

そもそも、僕にしかできないことをすることが、僕の給料の源泉であるはずだから、一般職と同じことをしていては給料泥棒であるというわけでもある。

 

ケアマネジャーは他職種であるなぁって、いつも思うのだけれども、管理者であり、かつ、所長という立場になり、余計にその視点の多さややることとやりたいことの多さに集中力の散漫が目立ってしまう。

 

今週は、これこれに集中しよう、という目標というか方針を立てて、

それに向かって継続努力していかなくてはいけない、と、思う。

 

「7つの原則」にあるように、

緊急ではないが重要なこと、に、いかに時間を使っていけるかどうかが事業の成功に導かれていくのであろう、と、思う。

 

重ねて言うが、一般職と同じことをしているだけの自己満足の上司であったり、所長であったりするということは、

会社にとっては害である。

 

緊急ではないが重要なこと、

それを行う時間を優先的に、シフトに入れてしまう、という事が大事である。

 

いわゆる、時間さえかければ誰でも負えられる「作業」というものに、どれくらいの時間がかかるのかを数値を把握して、

この「緊急でないが重要なこと」をする時間を捻出すること、も、コツの一つであろう。

覚書。

自分はすぐに動いて試してみないと気になってしまって仕方ない正確である。

 

それによって、非常に損することもあり。購入してみて使わない、家に在庫があったなんてことは日常茶飯事である。

働く意味。

働くことに疲れたら、

僕には戻れる場所がある。

 

働くということはどういうことなのか、

それがわかったから。

 

働くということは、日々のご飯を食べるためにお金を稼ぐこと。

または、食べるものを作って日々の食事を摂ること。

 

それ以上ではない。

 

確かに、名声だとか、高給であることとか、将来の安心であるとか、

僕も、人も、求めることがあるけれど、

順風満帆なときにはそう思っていいと思うけれども、

本当のピンチとか、勝負に逃げる必要があるくらいに追いつめられたときには、

こういう場所があるんだって言うことを知っているか、知らないでいるかで、

その人の生きる力が、雲泥の差が出る。

 

僕は本当に、

蟻であるとか、昆虫、野原の鳥に学ぶ。

貯金や名声なんて無い。

自分がなぜ虫であるのかという疑問もない。

毎日、餌になりそうなものを鳥は起きている間中探し、日が暮れたら巣に戻る。

これが働くということ。

だけれど、休日もない。

お腹が空かない日がないように、働くということの休みもない。

 

シンプルに、

働くということは、ご飯を食べるため。

そんな場所もある。

 

名声を追いかけると、行き詰まる時がある。

そういうときに、選択肢の多さは必要で、心の余裕はその後の選択をポジティブにする。

最終の砦に生きられる自信、というものをもつと、

大抵のことは、遊びに思えてくるものだ。