介護保険に負けた、「福祉」

福祉 には哲学が必要だ。

あけましておめでとうございます。2017年。平成29年。

あけましておめでとうございます。

 

と言っても、この辺境のブログに誰が来るというものでもなく、

ただ自分に対してのけじめ、備忘録ですが。

 

今年も、生業を継続していくでしょうけれど。

スタンスは変わらずに、やっていく事でしょう。

 

さて、

 

人間を相手にしている仕事、退陣援助職を生業にしているが、

僕の分野で行くと、どうしても「医療」と「福祉」になってしまう。

だから、詳しくないことは書けないし今は興味もあまりないから、

つらつら、書く。

 

福祉系の仕事をしている人が、医療系の仕事に転職する人がいる。

簡単、いや、具体的に言うと、

介護職が看護職になったりする。

まぁ、それはそれでいいのかもしれないけれど、僕はこういう人たちは

どこまで介護を知って、転職種(造語)したのだろうかと思う。

けれど、探求しない介護職よりは腐ってはいなかったんだろう、とは思う。

 

 

僕が介護職から抜け出せないでいるのが、人間がわからないからだ。

実は、抜け出したこともあるのだけれど、戻ってきた。正確には。

結論から言うと、

僕の考える仕事に終着点はないし、結論はないし、完成はない事だけがわかっている。

僕の人生は、未完成のまま終える。

そしてそれで僕は十分だと思うのだけれど、年始から縁起でもないことを言っているのかもしれないけれど、

完成してしまったら、それは大きな「誤解」であり「嘘」だからだ。

人間という存在は、つかみどころのない存在であって、

人の心というものは、まったくわからない。

常に想像する。

だけれど、答えなんてない。答えらしきものに到着した途端、別の答えに行き着いてしまう。

もしくはその可能性を含んでいる。

心理学、哲学などは、一定の指針になりはするけれども、しょせんは統計学であって、

学問(科学)にしたとたんに、それは個別性から離れていく。

僕は学術者ではないから、一定の法則を知ることは役に立ってもそれは同時に囚われる要素を持つこととなる。

この相対する法則を常に感じて(そんなにアンテナは張ってない、疲れるね(笑))、

考える時には考える。

 

現在の科学とは、かりそめの約束事であるだけだという事を、改めて感じていたい。

下顎は不変ではないし、それは統計上の暫定値であるだけであって、

その暫定の上に、現在の医療は成り立っているだけであるという事を、

真摯な医師は、既に気づいて、命と戦ってくれている。

(そんな医師に出会うと、本当に心から頭が下がる)。

 

心というわからない、安定していないモノを基盤として、

その上で毎日の仕事をするという事は、大変労働なんだと思う。

 

宗教が存在する事のゆえんは、恐怖であり、

人は常に安定を求める。

不安定なものに、人間は基本的に恐怖する。

宗教は絶対的であって、他の可能性を否定すると僕は思っている。

僕にとって宗教は、安定を求める人の心の在り方に依拠していると思っている。

(だから宗教を否定しないけれど、妄信している人を否定する)。

それほどに、宗教がマヤ文明の古からあるように、

「何かを決定してくれるモノ」

「絶対を保証してくれるモノ」

「方針を決定してくれるモノ」

を、本能的に人は求める。

決定的に、存在の不安感としてこの点に、人間が悲しいくらいに弱い。

そんな人間であり、自分がその一人であることが愛しく思えるくらい、人は安心を求める。

しかも、心の安心という、なんともつかみどころのない、

元来不安定であることが規定されているモノに対して、安定を懇願している。

人に対しての、

「慈愛」「慈悲」「慈しい」

こんなような、感情が根底にあるのだと思う。

僕がこの仕事から抜け出せないでいるのは。

まったく、人は悲しい存在です。

 

 

だから、

医療職に転職種する動機が知りたいな、と思う。

医療という科学を基盤にしている職種へ行く事は、

まったく介護という、非科学的な分野からの脱皮としては、

対象者が人間であるという事のみ同じであっても、

集中する点が違う。

 

心を看ない医師でも、病を治してくれれば、感謝できる。

優しいだけで、病気を知らない古い薬しか出せない医師は社会悪だ。

 

「心なんて関係ない」、そんな援助職に、自分の何を話せるというのだろう。

僕の仕事のそのほとんどは、9割は、

相手との信頼であって、真摯に取り組む事以外に持続する方法が無い。

「おクスリ」なんてなくって、日々の「思いやり」しかない。

できていないから、日々の努力を必要としているという、至極当然な姿だ。

 

不安定に疲れてしまったから、医療職なんですか?

(お給与ですか(笑))

 

今年も、

「不安定に、安心して安定する。」

という矛盾するようで、

とても自然な姿を目指し続けるものでありますように。

そして、永遠にそこに自分は行き着かないことに、呆れ疲れてしまいませんように。

援助者の傲慢、越権。

世帯構成:本人70代女性と、娘30代の二人暮らし。父親は他界。娘は所謂不倫相手の子供であり、父親亡き後は本人が懸命に働き育て上げる。

 

主介護者である娘から毎日のように電話連絡あり。本人がヒステリー(医学的な意味で)の状態になり、攻撃的、暴言を吐く等の行為がエスカレートしている。この間はバスの中でも大声で反社会的な言動を言って、大変な目にあったと。

 

本日、定期訪問にて、本人と主介護者の娘と面接する。

 

本人からの話しにて、自分は生きているだけで娘の人生を駄目にしている。娘が独身でいることも自分がいるからである。自分がいるから、娘は嫁にいけないのではないか、等、自虐的な感情の最中にいた。

 

反面、主介護者の娘からは、「でも、お母さんはたまに「私の面倒を看るのなんて子供として当然だろ!」っていう時もあるよね。

と、返す。

 

本人としてはヒステリー状態の中で発している言動は、明確な記憶に残っておらずに、娘に言われると、「私、そんな事を言うんだね、どうしようもないね」と、落胆する。抑うつ傾向がみられる。

娘も、日ごろの介護へのストレスから言い過ぎたと気付いたのか、「お母さんのことを嫌いじゃないんだよ、でも、あんな言い方を毎日されていたら、私だって本当につらいから。」  と。

 

長谷川式スケールを実施すると30点中27点を取る。主治医からは認知症と診断されているが、ここ1年くらいの付き合いにて認知機能の低下を見られないことから、自分はこの診断を診断としてだけ受け止めている。

 

この抑うつ傾向の原因は、自責の念。

自分の存在の否定。

 

母として。

ひとり、娘を育てるためにいくつものパートを掛け持ったこと。

子供を世間体の悪さから守りたいと、ずっと思い耐えてきたこと。

今でも、自分の病気や精神的不安定よりも、娘の将来の心配をケアマネジャーに吐露している事。

どこまでも、母であること。

しかし、母は結局単なる役割であって、あなた自身だって何度誰かに頼りたいと思っただろうこと。

それがかなわずに、必死に今まで耐えて耐えてひとりの娘を育て上げた事。

そんな娘は、

今、娘が愚痴は言うかもしれないけれど、大事に介護を続けている事。

泣き言をいっぱい言うけれど、お母さんのことを一番好きでいる事。

これら、

まぎれもなく、あなたが必死の苦労で育てる事が出来た、かけがえのない娘である事。

 

自分の価値は、自分では一番わかりにくい事。

自分を否定する事、卑下する事、邪険に扱う事、これらは一番簡単な手段。

自分を大事にすることが、実は一番難しい事であると。

自分の価値は自分ではわかる事が出来ずに、誰かを必要とする事。

この、お母さん思いの娘を育てたのは、紛れなくあなたです。

貴方に価値が無いなんて、娘をみればわかるんじゃないかな。

母として、こんな人を思いやれる娘を育てたという事は、

あなたに、生きている価値があるという事。

 

だから、生きていていいんですよ。

病気が治っても、治らないでも、あなたは生きていていい。

そのまんま、生きている資格が十分ありますよ。

あなたには価値があるんです。

それを教えてくれているのは、娘さんですよ。

 

 

と。

自己否定、存在の否定から発する、フラストレーションからのヒステリー。

「殺せばいいだろ!」

「いつまで私をかまってるんだ!」

「こんなまずい飯が食えるか!」

本当は、

「自分がいることで、娘であるあなたをこれ以上苦しませ不幸にするのならば、

 私は消えてしまいたい、でも、私から言えないから、私を嫌いになってください。

 そして、捨ててしまってください。あなたを苦しませていることがつらいんです。」

という悲しい気持ちの、反動なんだろう。

 

 

ただ、

人は、矛盾する弱い人間であるのだから、

親も歳を取れば子供にすがりたくもなる。それも本心。

邪魔にはなりたくないことと、

子供にすがっていたい親の性が同居するのも、人。

 

「それでいいんですよ。完全な親をみせないで。

 強がっているけれど弱いのが人である、親であることを子ともに見せることも、

 きっと、子供の想い出になり、お母さんへの愛着になりますよ」

 

涙の中の、会話が終わり、

その世帯を後にするときに、偉そうなことをこれだけ吐いた時に、いつもそうであるように、

この寒空の下で、俺はどれほどの存在なんだろう、と思う。

偉そうに、人に説教を垂れて。

俺だって、自分の事で精いっぱい、いやそれさえ不十分なのに。

どこから、あんなことを言えた人格者なんだってんだろう。

こんな自分が吐き捨てるくらいに、落ち込んでしまう。

本当に、偉そうなことを言う。

俺は、とてもとても、よわっちい人間で駄目なのにね。

 

でも、最近は、そんな自分を少し、許せるようになったことが、

何よりの、成長なのかな、とも思う。

 

 

ケアマネジャー。

そんなもん、大嫌いだし、誰かに必要とされるための仮面、手段でしかない。

困っていたら、ほっとけないじゃん。

それ以上が、俺にはない。

 

だから、介護保険なんて、正直どうでもいいんだ。

素敵な出会いの後の焦燥感。

水分も受け付けなくなった、倦怠感の中で、
僕の顔を見て
「あら、〇〇さん、覚えているわよ」
と、
ふたたび目を閉じて、また、まどろみの中に戻られた。

.
僕は今、
専門研修を受講していて、「リ・アセスメントシート」というものを書かされているのだけれど、
そのおかげで失いそうになったことがあったんだね。
書類を埋めることを必死にやる。
滞りなく、返戻無く、無難に、素早く。
僕はきっと、あのシートに書いてあることを、ほどなく埋めて、
あたり障りなく終えられる。
そのくらいの器用さ、数年もやっていれば身につくもの。
.
厚労省だとか団体だとかは、
ケアマネジャーの質を向上させるという。
させないといけないなんて、疑われている。気がする。
それも一理はあって、そういうバカも居る。
だからなのか、
その半分でしかない理由を持って、
質の向上のために、
そのひとつの道具が、あれなのかもしれないけれど、
月に35名、いちどきに何人もの「どうしたらいいの?」「困ってるの」の声に応えつつ、
日々を邁進している真面目なケアマネジャーさんが、意外に多いことも気付く。
.
そういう、ひとりひとりが、豊かな発想を持っていても、
それを発揮する心の余裕が無ければ、
ケアマネジャーという人の動きの質は上がらない。変われない。
.
お医者さんだって、
きっとその日の患者さんが30名の時と、
100名来た時の診察の丁寧さは、違うはずだと思った。
.
アセスメントシートによる細部の気付きなんかよりも、
既に気づいている「より望ましい」が、できずに、
それよりも緊急度の高い困っている人に時間を割くことを選んでいる事を、
「質の低下」と、あなた方は呼んでいる、事に気付かないんだろう。
一部気づいていても、上部の求めに応じるために、
職務として書類を増やす事を生業にしなければいけないひともいるんだろう。
.
現場は、結構現実的に動いているのかもしれない。
トリアージを、自然に行えなければケアマネジャーにはなれない。
.
....
.
時間が意味を持たない今を生きている、あの人に、
「どうか、穏やかに。
 このまま、穏やかに。
 ありがとう。また、会えますね。」
と、
なんだか、涙がにじむけれど、それもいい。
大事なことは、
、、、

維持期のリハビリテーション。

リハビリテーションの過程としては、

「急性期」「回復期」「維持期」とあるらしい。

 

この分野において、介護職がかかわる時期としては「維持期」に該当するリハビリテーションであろう。

残存機能(何だか時代遅れな表現の印象)を維持して行く事が目標である期間。

(経験的に、継続して維持して行く事で徐々に回復傾向となる)

このリハビリテーションにおいては維持期に当たる時期に、

介護職はご利用者と関わる事となる。

 

リハビリテーションの概念では、

「できるADL]と「しているADL」への転換、なんていうのを謳われているらしい。

 

リハビリテーション室では「できるADL」でも、

病棟や居室にいくと「しているADL」とはならずに代わりに看護介護職が行ってしまっているという現象。

看護介護職にとっては、その方が早く事が済むから行ってしまうという事も多々ある。

これは、簡単に考えれば合理的ではない。

看護介護職の介助を必要としない状態に回復していただければ、

将来的には全く解除する時間を必要としないご利用者に変われるのに、

その機会を奪ってしまっている、短絡的な発想であると同時に、、、

「誰も、他者の介助をしてもらいたい人なんていない」

という当たり前のご本人の意思の具現化を目指す職種として、いただけない。

お互いの為に、

「残存機能を活かす」という事は意識的に行われた方がいい。

 

よくある場面では、

靴を時間を掛ければ履けるけれど、介助をしてしまう、という場面。

例えば、1か月、看護介護職が精一杯時間を掛けて、

ご利用者自身に靴を履いてもらうという事をしてもらえば、その方は以後、

靴を履くために介助を必要としないで生活を送る事ができる。

 

現在の、特に介護職は、

積極的にセラピストの意見を活用するといいと思う。

 

その方の介助に置いての苦労する場面、

自立できる可能性やリハビリテーションの目標がどこにあるのか、

その方という一人を見つめていても、介護職とセラピストの視点が異なっていては、

先の、

リハビリテーション室でできるけれど、生活場面では活かされない動作が拡張していく。

介護職にとっての困難さを、セラピストに相談する事によって、

セラピストはそれを軽減するための目標を立てられるか、

もしくは代替案としてその他の方法を提案できるか、等、

役にたってもらえる事は大いにある。

 

そして、それを一番望んでいるのもセラピスト(PTやOT、ST)だ。

自分の行う機能訓練が、リハビリテーション室だけで行われているという事に、

やりがいを持つセラピストはいない。

職命として日常生活の回復を目指して、セラピストはリハビリテーションを行う。

その為には、看護介護職は不可欠である。

リハビリテーション室で獲得した「できる動作」を、

日頃の暮らしの場面でも行えるように、機能訓練はされている、はずである。

介護職ができる動作を代替する事なくしてもらっている事で、

セラピストは次の目標を立案できる。

併せて、この場面で介護職も是非、次の目標をどこに設定すると適当であるか参加する事が必須であろう。

どこまでも、リハビリテーション、維持期リハビリテーションは生活に根付いており、

生活を支援しているのは介護職なのだから。

 

そして、機能回復訓練を超えた、リハビリテーションの理念とは、

「全人間的復権」

であると言われているのならば、これほど介護職に近しい専門職はない。

 

「障害を負った後の方が、あぁ、自分らしい暮らし方ができているなぁ」

と思ってもらえる事を目指す職は、

第一には、セラピストと介護職だろう。

(医師や看護師は、第一義として「治療」があると思うので)

自分と「他」の間に生じる、エネルギー。

ある程度の規則性までは追求できる、先人たちのように。
その意味で科学的であろう。
.
「受けたモノに対する、反応」
これ一つにおいても分析すると、
「受けられるセンス」「受ける内容へのセンス」、
「反応できるセンス」「反応する(しないという反応を含んだ)センス」「反応する内容へのセンス」、「場(空気)へのセンス」・・・
に分けられるように思える。
.
これらにある程度の規則性を与える事は出来るけれども、
「センス」の真髄においては探求の中に偶発的に、
(もしくは全く探求を要しない人もいたりするように)
しかし、当人には必然的に生じている感覚のようなものであるから、
とっても言語化、規則性を定義しづらい、しにくい。
(だから探求を要しない者が最も真理に近付いている、と思わせるような)

介護保険の世代間格差。

年金問題では世代間格差が騒がれて、今受給している人は、もらえる程積み立てていないのに満額支給されているのはおかしい、

とおっしゃる人がいるけれど、

介護保険だって同じですよ。

今受給されている高齢者は確かに年金から介護保険を支払ってはいますけれど、

今とこれから40歳になる人のように、長年積み立てていないのに、

不十分と言われながらも今とこれから40歳になる人よりも手厚い介護量をもらえています。

 

それに、

将来的に介護保険の対象を「要介護3以上」に限定するという財務省の提言が叶うとしたら、

人生の終盤、5年程度に使える介護サービスのみの為に、

自分が40歳の頃から43年間程度も毎月5000円支払う、という事に意義を見出せるのか、

という根本的な問題がある。

これは医療保険よりも不全感の残る社会保障費の支出になるだろう。

 

若くても、年に1回は風邪をひいたり、

歯医者さんに歯石を取りに行ったり。

何かしら若くしても医療保険のお世話になるけれども、

介護保険のお世話になるのは40歳以降でかつ16疾病に該当した場合である。

確率的に圧倒的に少なく、費用対効果が悪すぎる。

 

いやぁ、裏付けのない事を書いたもんだ。。。

つまらん。

施設介護についての意見-4

まぁ、前回書いた内容的な事は、全て三好春樹さんとか高口光子さんなどが、

既に主張している事なので、結構有名だったりする。

 

ユニットケアという幻想―介護の中身こそ問われている

ユニットケアという幻想―介護の中身こそ問われている

 

 これに書かれていない項目として、

◎ 要介護状態の区別なしに、入居している現実。

というものもある。(さらっと眺めただけの本だけれど確か書いてなかった)

 

特別養護老人ホームという、在宅では支えきれなくなった利用者を受け入れる施設において、

ユニットケアを行う事は、無意味に近い状態になりやすい。

重度の認知症であったり、意思の確認が困難な利用者に、

ユニットケアの目指す「その人らしさ」を実践するには、本人の「こうしたい」という希望が聞く事ができない。

 

ユニットケア先駆的施設で行われている、

「起きる時間自由」

「食事時間自由」

「入浴時間自由」 とか。。。

ご本人の意思を確認できない場合、

教科書的には生活歴を鑑み、ご家族や介助者が代わりに意思決定する、という。

けれど、

現実には人手のない夜間帯に入浴介助を行おうとは、できるはずがない。

自然とルーティンワークのしやすい時間帯で行っていく。

特別養護老人ホームの使命として、重度の介護を要する状態の方が優先して入居する。

おひとりでは体を動かす事も出来ない方が、個室でベットに横になっている。

「一人の部屋で、テレビだけがついて、上だけ見ている。」

 

「人は食堂に出てきて窓の外を見るものだから、リビングの中央側に車いすを向けているのはおかしい。窓の外を見る方が自然。」

と、窓の外に向けて車いすが向けられた。

1時間半、そのままだった。

「おかしい」だろ、これ。

介助者からは、その方の背中しかみえないのに、

自分から発語ができず、意思表示ができず、車いすを動かす事はもちろんできない、

そんな障害のある方を、長時間背中しか見えない姿勢に置く事は、おかしい。

 

もちろん、程度の問題なんだ。

 

だけれど、気持ちの無い「ユニットケア」は、

その「良いというケア」 自体もルーティンワーク化する。

だから、先の非常識な事態が行われてしまう。

 

だから、まずは人間としてどうなの、という基本的な事なんだ。

基本的な事をできる、基本的な介護ができる事から、始まるんだから。

介護は、オムツ交換や入浴介助、食事介助ではない。これらは「介助」の事。

介護は「人間性の回復」の事。

 

小難しく言うと、

「職員を「介」して、人権を「護る(まもる)」のを、介護」という。

と、思う。

これは、看護職には無い思想なんだ、よ。

看護師の方が給料もいいし、立場も上の現実だけど、

自分の体を使って、利用者の人権を護る事は、介護職しか専門家ではない。

 

個室。

閉じられた人間関係。

過密な交代勤務。

過酷なストレス。

それを無視する為の人間性のマヒ。

3年経験しても、通算数十人の利用者しか経験していない。

 

いい点もある。

だけれど、ここまで口を酸っぱくして思うのは、

税金で優遇されているくせに、

値段は有料と同じくらい高いし、

ろくな介護していないし、

職員は育てられずダメになっちゃうし、

理想を追い求め続ける事が大事なのに、それを諦めさせるにはもってこいの条件が、

ここまで揃ってしまっているのが、ユニット型施設だから。