介護保険に負けた、「福祉」

福祉 には哲学が必要だ。

素敵な出会いの後の焦燥感。

水分も受け付けなくなった、倦怠感の中で、
僕の顔を見て
「あら、〇〇さん、覚えているわよ」
と、
ふたたび目を閉じて、また、まどろみの中に戻られた。

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僕は今、
専門研修を受講していて、「リ・アセスメントシート」というものを書かされているのだけれど、
そのおかげで失いそうになったことがあったんだね。
書類を埋めることを必死にやる。
滞りなく、返戻無く、無難に、素早く。
僕はきっと、あのシートに書いてあることを、ほどなく埋めて、
あたり障りなく終えられる。
そのくらいの器用さ、数年もやっていれば身につくもの。
.
厚労省だとか団体だとかは、
ケアマネジャーの質を向上させるという。
させないといけないなんて、疑われている。気がする。
それも一理はあって、そういうバカも居る。
だからなのか、
その半分でしかない理由を持って、
質の向上のために、
そのひとつの道具が、あれなのかもしれないけれど、
月に35名、いちどきに何人もの「どうしたらいいの?」「困ってるの」の声に応えつつ、
日々を邁進している真面目なケアマネジャーさんが、意外に多いことも気付く。
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そういう、ひとりひとりが、豊かな発想を持っていても、
それを発揮する心の余裕が無ければ、
ケアマネジャーという人の動きの質は上がらない。変われない。
.
お医者さんだって、
きっとその日の患者さんが30名の時と、
100名来た時の診察の丁寧さは、違うはずだと思った。
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アセスメントシートによる細部の気付きなんかよりも、
既に気づいている「より望ましい」が、できずに、
それよりも緊急度の高い困っている人に時間を割くことを選んでいる事を、
「質の低下」と、あなた方は呼んでいる、事に気付かないんだろう。
一部気づいていても、上部の求めに応じるために、
職務として書類を増やす事を生業にしなければいけないひともいるんだろう。
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現場は、結構現実的に動いているのかもしれない。
トリアージを、自然に行えなければケアマネジャーにはなれない。
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....
.
時間が意味を持たない今を生きている、あの人に、
「どうか、穏やかに。
 このまま、穏やかに。
 ありがとう。また、会えますね。」
と、
なんだか、涙がにじむけれど、それもいい。
大事なことは、
、、、

維持期のリハビリテーション。

リハビリテーションの過程としては、

「急性期」「回復期」「維持期」とあるらしい。

 

この分野において、介護職がかかわる時期としては「維持期」に該当するリハビリテーションであろう。

残存機能(何だか時代遅れな表現の印象)を維持して行く事が目標である期間。

(経験的に、継続して維持して行く事で徐々に回復傾向となる)

このリハビリテーションにおいては維持期に当たる時期に、

介護職はご利用者と関わる事となる。

 

リハビリテーションの概念では、

「できるADL]と「しているADL」への転換、なんていうのを謳われているらしい。

 

リハビリテーション室では「できるADL」でも、

病棟や居室にいくと「しているADL」とはならずに代わりに看護介護職が行ってしまっているという現象。

看護介護職にとっては、その方が早く事が済むから行ってしまうという事も多々ある。

これは、簡単に考えれば合理的ではない。

看護介護職の介助を必要としない状態に回復していただければ、

将来的には全く解除する時間を必要としないご利用者に変われるのに、

その機会を奪ってしまっている、短絡的な発想であると同時に、、、

「誰も、他者の介助をしてもらいたい人なんていない」

という当たり前のご本人の意思の具現化を目指す職種として、いただけない。

お互いの為に、

「残存機能を活かす」という事は意識的に行われた方がいい。

 

よくある場面では、

靴を時間を掛ければ履けるけれど、介助をしてしまう、という場面。

例えば、1か月、看護介護職が精一杯時間を掛けて、

ご利用者自身に靴を履いてもらうという事をしてもらえば、その方は以後、

靴を履くために介助を必要としないで生活を送る事ができる。

 

現在の、特に介護職は、

積極的にセラピストの意見を活用するといいと思う。

 

その方の介助に置いての苦労する場面、

自立できる可能性やリハビリテーションの目標がどこにあるのか、

その方という一人を見つめていても、介護職とセラピストの視点が異なっていては、

先の、

リハビリテーション室でできるけれど、生活場面では活かされない動作が拡張していく。

介護職にとっての困難さを、セラピストに相談する事によって、

セラピストはそれを軽減するための目標を立てられるか、

もしくは代替案としてその他の方法を提案できるか、等、

役にたってもらえる事は大いにある。

 

そして、それを一番望んでいるのもセラピスト(PTやOT、ST)だ。

自分の行う機能訓練が、リハビリテーション室だけで行われているという事に、

やりがいを持つセラピストはいない。

職命として日常生活の回復を目指して、セラピストはリハビリテーションを行う。

その為には、看護介護職は不可欠である。

リハビリテーション室で獲得した「できる動作」を、

日頃の暮らしの場面でも行えるように、機能訓練はされている、はずである。

介護職ができる動作を代替する事なくしてもらっている事で、

セラピストは次の目標を立案できる。

併せて、この場面で介護職も是非、次の目標をどこに設定すると適当であるか参加する事が必須であろう。

どこまでも、リハビリテーション、維持期リハビリテーションは生活に根付いており、

生活を支援しているのは介護職なのだから。

 

そして、機能回復訓練を超えた、リハビリテーションの理念とは、

「全人間的復権」

であると言われているのならば、これほど介護職に近しい専門職はない。

 

「障害を負った後の方が、あぁ、自分らしい暮らし方ができているなぁ」

と思ってもらえる事を目指す職は、

第一には、セラピストと介護職だろう。

(医師や看護師は、第一義として「治療」があると思うので)

自分と「他」の間に生じる、エネルギー。

ある程度の規則性までは追求できる、先人たちのように。
その意味で科学的であろう。
.
「受けたモノに対する、反応」
これ一つにおいても分析すると、
「受けられるセンス」「受ける内容へのセンス」、
「反応できるセンス」「反応する(しないという反応を含んだ)センス」「反応する内容へのセンス」、「場(空気)へのセンス」・・・
に分けられるように思える。
.
これらにある程度の規則性を与える事は出来るけれども、
「センス」の真髄においては探求の中に偶発的に、
(もしくは全く探求を要しない人もいたりするように)
しかし、当人には必然的に生じている感覚のようなものであるから、
とっても言語化、規則性を定義しづらい、しにくい。
(だから探求を要しない者が最も真理に近付いている、と思わせるような)

介護保険の世代間格差。

年金問題では世代間格差が騒がれて、今受給している人は、もらえる程積み立てていないのに満額支給されているのはおかしい、

とおっしゃる人がいるけれど、

介護保険だって同じですよ。

今受給されている高齢者は確かに年金から介護保険を支払ってはいますけれど、

今とこれから40歳になる人のように、長年積み立てていないのに、

不十分と言われながらも今とこれから40歳になる人よりも手厚い介護量をもらえています。

 

それに、

将来的に介護保険の対象を「要介護3以上」に限定するという財務省の提言が叶うとしたら、

人生の終盤、5年程度に使える介護サービスのみの為に、

自分が40歳の頃から43年間程度も毎月5000円支払う、という事に意義を見出せるのか、

という根本的な問題がある。

これは医療保険よりも不全感の残る社会保障費の支出になるだろう。

 

若くても、年に1回は風邪をひいたり、

歯医者さんに歯石を取りに行ったり。

何かしら若くしても医療保険のお世話になるけれども、

介護保険のお世話になるのは40歳以降でかつ16疾病に該当した場合である。

確率的に圧倒的に少なく、費用対効果が悪すぎる。

 

いやぁ、裏付けのない事を書いたもんだ。。。

つまらん。

施設介護についての意見-4

まぁ、前回書いた内容的な事は、全て三好春樹さんとか高口光子さんなどが、

既に主張している事なので、結構有名だったりする。

 

ユニットケアという幻想―介護の中身こそ問われている

ユニットケアという幻想―介護の中身こそ問われている

 

 これに書かれていない項目として、

◎ 要介護状態の区別なしに、入居している現実。

というものもある。(さらっと眺めただけの本だけれど確か書いてなかった)

 

特別養護老人ホームという、在宅では支えきれなくなった利用者を受け入れる施設において、

ユニットケアを行う事は、無意味に近い状態になりやすい。

重度の認知症であったり、意思の確認が困難な利用者に、

ユニットケアの目指す「その人らしさ」を実践するには、本人の「こうしたい」という希望が聞く事ができない。

 

ユニットケア先駆的施設で行われている、

「起きる時間自由」

「食事時間自由」

「入浴時間自由」 とか。。。

ご本人の意思を確認できない場合、

教科書的には生活歴を鑑み、ご家族や介助者が代わりに意思決定する、という。

けれど、

現実には人手のない夜間帯に入浴介助を行おうとは、できるはずがない。

自然とルーティンワークのしやすい時間帯で行っていく。

特別養護老人ホームの使命として、重度の介護を要する状態の方が優先して入居する。

おひとりでは体を動かす事も出来ない方が、個室でベットに横になっている。

「一人の部屋で、テレビだけがついて、上だけ見ている。」

 

「人は食堂に出てきて窓の外を見るものだから、リビングの中央側に車いすを向けているのはおかしい。窓の外を見る方が自然。」

と、窓の外に向けて車いすが向けられた。

1時間半、そのままだった。

「おかしい」だろ、これ。

介助者からは、その方の背中しかみえないのに、

自分から発語ができず、意思表示ができず、車いすを動かす事はもちろんできない、

そんな障害のある方を、長時間背中しか見えない姿勢に置く事は、おかしい。

 

もちろん、程度の問題なんだ。

 

だけれど、気持ちの無い「ユニットケア」は、

その「良いというケア」 自体もルーティンワーク化する。

だから、先の非常識な事態が行われてしまう。

 

だから、まずは人間としてどうなの、という基本的な事なんだ。

基本的な事をできる、基本的な介護ができる事から、始まるんだから。

介護は、オムツ交換や入浴介助、食事介助ではない。これらは「介助」の事。

介護は「人間性の回復」の事。

 

小難しく言うと、

「職員を「介」して、人権を「護る(まもる)」のを、介護」という。

と、思う。

これは、看護職には無い思想なんだ、よ。

看護師の方が給料もいいし、立場も上の現実だけど、

自分の体を使って、利用者の人権を護る事は、介護職しか専門家ではない。

 

個室。

閉じられた人間関係。

過密な交代勤務。

過酷なストレス。

それを無視する為の人間性のマヒ。

3年経験しても、通算数十人の利用者しか経験していない。

 

いい点もある。

だけれど、ここまで口を酸っぱくして思うのは、

税金で優遇されているくせに、

値段は有料と同じくらい高いし、

ろくな介護していないし、

職員は育てられずダメになっちゃうし、

理想を追い求め続ける事が大事なのに、それを諦めさせるにはもってこいの条件が、

ここまで揃ってしまっているのが、ユニット型施設だから。 

施設介護についての意見-3

ユニット型施設に勤める職員は、孤独だ。

 

ユニット型施設の成り立ちについては、以前書いたようだと俺は認識しているけれど、

あくまで、それは、そのシステム、ハードを真似たもの。

そこで働く職員のモチベーションまではコピーする事は出来ない。

ユニット型施設もそうであるように、人手に余裕はあまりない。

新人や新入職者が入ってきて行われる研修は、そのほとんどはOJTだろう。

そのOJTでさえも、新卒では長くて3か月、経験者では数週間もあれば長い方ではないだろうか。

そこで、一人でそのユニットの日勤帯ないし2ユニットの夜勤帯を任される。

特に新卒者にとって、これは不安以外の何物でもない。

仮に、体調不良者が出た場合の判断は自分だ。

日勤帯であったら看護師がいてくれるであろうけれども、体調が悪いと判断できる存在は自分だけである。

看護師に連絡をするべきかどうかの判断は自分の責任であるし、

それ以前に、利用者の異変に気付けるかどうかは自分の能力に掛かっている。

新卒者にとって、これは不安以外の何物でもない。

そして当然に、転倒や体調不良発見の遅れが発覚した場合には新卒者に原因追求の任務が課せられる。

「事故報告書」という形で。

転倒事故などは、その原因を把握する事も難しいし尚更改善方法なんてなかなか無い。

 

もう一つの、孤独が招く欠点に、

「自分の時間帯で、ここまで終わらせておかないと、次の人に迷惑がかかる」

という、無言のプレッシャーだ。

 

昔から、「オムツ交換、入浴介助が早い」という事が介護職員のステータスである雰囲気がある。

まぁ、それだけ現場は忙しいから周りを助けてくれる職員としての勲章なんだろうけれども、

とりあえず「その人らしさ」を追及しているユニットケアとは矛盾している。

新卒者にとって、先輩は怖いでものであるし次の段取りができているかどうかで、

自分の評価が変わってくるとなると、

決まり切ったルーチンワークを人並みにこなすことが目標になる。

これは絶対に、そうなる。

「だれかれの時は、いつもオムツ交換が終わってない」

「誰々の時は、食事介助が全然途中で、後が大変」

正直、俺は比較的堂々と

「ごめん、今日は飲み込み悪くて~~さんまだ食事終わってないよ~」

って、言えたけれど、それって経験者の余裕だったり立場だったりで言えたわけで、

正直、休憩上がりの先輩(同輩や部下でも)から、

「あー、ここまでしか終わってない」という無言の「使えな~」という表情は相当堪える。

 

今後も、仲良く仕事をしたいから。

今後も、波風立てたくないから。

陰口で、あの人の後ってきついよね~ と先輩が言っているのを聞いて自分もそう言われたくないから。

あなたの後は助かるわ~。

仕事早くて、あの人の勤務の日は助かる~。

って、今後も言われ続けたいから。

 

俺は、この感情を全く否定しない。

「当然の感情」だから。

それに、やはり介護技術がうまい人で非常識に仕事が遅い人はいない。

これも事実の側面だから。

 

このユニットを、一定時間一人の責任ですべてを任されるシステムというものは、

利用者のペースよりも、職員のペースを優先する傾向にならざるを得ない。

一方で、

転倒しないように目を配る、

体調不良に気付けるように観察の目を向けられる。

そんな専門性には、介助者の精神的な余裕がどうしても必要であるけれど、

休憩上がりの職員さんの顔色、

早番や日勤が出勤した時の顔色、

それを考えると、専門職としての観察力は後回しになる精神状態に、

「人間だったら、なる」

 

10人を一人で見る事はつらい。。。

20人を二人で見る事は、これ程にはつらくない・・・

 

20人を二人で見た場合には、

新卒者は、遅くて当たり前だともう一方の先輩に思ってもらえる。

先輩だって、今日は新卒者だから張り切らないと!と気合が入る。

頼りになるなぁと後輩に思ってもらえるチャンスだから。

 

ディスポを付けた手で、排便処理をしている時にナースコールが鳴る。

センサーマットの転倒のリスクを知らせるコールが鳴る。

そんな時に

「もう一人のあの人が、対応してくれるかも♪」という希望は、

介助者の安心に、、、利用者の状態把握の源泉になる。

 

ユニットケアとは、

「個別ケアの追及」「その人らしさの追求」「認知症の方の安心」「個室という人権」を、

厚労省は唱えている。

しかし現場は、それを行う余裕はない。

そんな現場に、最も理想に燃えた新卒者は投げ出され、洗礼を受ける。

事故はない。

大きな体調不良もない。

普通が段々と重なり、新卒者も普通の職員のスピードに慣れてきたころ、

現実が優先し、こうしたいという志は奥へと引っ込んでしまっている。

人によっては、「こんなはずじゃなかった」と、

甘ったるい事(責められんけど)を言って、辞めていく。

 

学校出てわずか数か月で、10人を任さられ、

先輩からの「臨機応変さ」「観察力」「精神性」を目で見ていない、

急造された「介護職員もどき」が、本人も気付かずに一人前になろうという経験数を数えるに至る。

「個別ケアの追及」以前の「個別ケア」もできない職員が、発生する。

 

「胃瘻から、どうやって口腔摂取に戻せるかなぁ?まだ駄目かな」

「歯ブラシ介助だけど、手が動くんだし自立を目指せないかなぁ」

「オムツから、ポータブルトイレ、そしてトイレへ連れて行ってあげたい!」

「便秘だから、朝の同じ時間にトイレに取り合えず座ってもらおうよ」

「移乗介助の、できるところはやってもらう。私の場合楽だよ。」

「とろみをつけるタイミング、そろそろかなぁ、でもみんな言い出さないし。。。」

「食欲低下だって、口腔内の異常、義歯の状態、排便状態、食事形態の確認、内服薬の副作用の可能性、抑うつに繋がる面会がなかったかって、みんなは想像する力あるんだろうか」

・・・・・・・・・・・

 

雑誌に載るようなユニットケア認知症実践者研修の施設の美談、

利用者が掃除をしていたり、

利用者とお料理したり、

ユニットにご飯の匂いがする生活感、とか。

 

そんなことよりも、基本的な人間性の回復の為にも、

「個別ケアの追及を追及するよりも、普通に個別ケアのできる職員」

であってほしい、、、

かった、けれど、

 

俺は、それをユニット型施設ではできなかった。

新卒以前の、無資格であった彼のオムツ交換の仕方を、当時ユニットリーダーであった俺は、見たことがない。

二番手の後輩に確認し「大丈夫でしたよ」の言葉でGoサインを出した。

いや、何度かあったか。それも最初の最初の頃に。

 

ユニット型施設は、人を育てられない。

言葉がすべて。それなのに交代勤務の激しさで他職員と会う事も少ない。

本当は、言葉にできる事なんて、大体がそんなに大事じゃない。

利用者を思う気持ちであるとか、

老いる悲しみであるとか、

施設に入所する立場の苦しさであるとか、

利用者の悩みに傾ける先輩の姿とか、

見て感じてもらうしかない領域の「福祉」が、教えてあげられない。

 

「俺を見てもらえないのに、何を教えるんだろう」

 

--------書き疲れた・・・-------

 

***続く***

のかな??あんまり考えたくないわ。。。

ユニット型施設の課題について-2

前回、番号を振ったのだけれども、それにはかかわらずに徒然と書いていく。

 

もともと、ユニット型施設とは「宅老所(=現小規模多機能)」をモデルに考案されたスタイルだ。

グループホームもそうであるけれども、

少人数を固定した人間関係に置き、一定の固定した職員により「馴染み」の関係を作り、

より深いレベルでの「個別ケア」であるとか「認知症のケア」を、実践できる、

というはずであった。

「宅老所」で実践されていた馴染みの関係、認知症に対するケアは、

先駆的に行ってらっしゃった方々にとってみれば、

「必要に迫られて行っていた結果」辿り着いたスタイルであった。

職員は主に地域の主婦であったり、志の新たな介護職員であったり、

いずれも既存の「出来上がった集団ケアへのアンチテーゼ」として始められていた。

何よりも大事にされる事は「その人らしさ」と「どうして暮らしていきたいか」。

「宅老所」は、現在の介護保険事業所でいう「小規模多機能」という名前のごとく、

本当に多機能であって、

日によって、デイサービスにもなるし、今日は泊っていくか、に対応するし、

今日は来ないけれどどうしたかな、の訪問介護も提供する。

介護保険事業所としての「小規模多機能施設」では、細かい運営基準や算定要件等が事細かに決められているが、

前時代的な(現存しているけれど)宅老所には、

「好きな時に来て、好きな時に帰る。時々気が向いたら泊っていけば。

 困った事が家であったら、手伝いに行くよ」

という地域の「よりあい」の場であるだけで、特に認知症対策であったわけでもない。

認知症に効果的であるという事は、偶発的な後付けの理由でしかなかった。

 

そんな必要に迫られて、地域の人たちが好きで始まった「スタイル」を、

ハードだけ真似て作られたのが、

グループホーム」であり、

「ユニット型施設」である。

 

**続く**